浄土真宗本願寺派,宗会議員
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全宗会議員に差別問題の危機を告ぐ(第1信)(平成16年(2004年)2月5日)

全76名の宗会議員に平成16年(2004年)2月5日PM11:50
広島中央郵便局より発送いたしました。


                            平成16年(2004年)2月5日
浄土真宗本願寺派
宗会議員 各位
                          安芸教区広陵東組教西寺住職
                          (監正局審事)
                          武田勝道        印

前略
 いま宗門は、滅亡への坂道を転がり落ちています。言いがかりを付け、甚だしきは文書を捏造し、差別を利用する輩が跋扈しています。従前の基幹運動の膿が噴出しています。一見美しい言説が、一番まやかしです。捏造に基づく差別行為の指弾、言いがかりによる差別事件のでっち上げ、宗門人が、名利追求のために差別問題を利用するのが今日の浄土真宗本願寺派の姿です。そこに宗教者の自覚はありません。

 備後教区に小滝了信「差別」事件(平成8年(1996年))、そして安芸教区に武田勝道の案内状「差別」事件(平成15年(2003年))がありました。前者は捏造された「差別」事件、後者は差別と全く無関係の研修会案内状を差別文書とした事件でした。よい僧侶を示すため、差別事件であると安易にまたは付和雷同し、あるいは利用して摘発します。それが不発に終わったとき、敗戦処理については、宗門の基幹運動「推進」派僧侶も本願寺の宗務員も、頬かむりです。両事件とも、宗門内にその誤りであったことの周知は全くされていません。わが宗門には、手続きがありません。間違う可能性が全く考えられていない。無謬性が前提とされている。権力者にたいする掣肘がない。そして宗門の基幹運動は昔からポーズです。だから、差別問題を資源化しその利用が横行するのです。

 私は、事件発生より、以下4点について回答を求めましたが、中山知見広島別院輪番(当時、現東京教区教務所長)は、詭弁を弄するだけでした。池谷亮真現広島別院輪番は、全く回答をせず職務怠慢を決め込んでいます。
(1)武田勝道が書いた案内状(別添)を差別文書(or疑いがある。or誤解を与えかねない。)というが、どこが差別なのか。
(2)誰の指摘を受け、どういう経緯で該案内状が差別文書であるとの安芸教区の判断になったのか。
(3)作成者に何らの接触もなく差別文書であるとの「お詫び」をするという手続き無視は、差別問題の利用を許し、本当の解決を遠ざけるという意味で、差別を助長する行為であると思うが、これについて教区および宗門はどう考えるか。
(4)広島別院の職員が、このような研修会には別院の施設を貸さないと発言したと聞くが、誰がどのような権限で発言したのか。そして、その判断の基準を示せ。また、平成15年(2003年)12月3日の広陵東組僧侶研修会(於広島別院)で出され反対のなかった2年や3年で任を離れる他教区出身の別院輪番(教務所長)が、建設の寄付をしている地元教区の僧侶のまじめな研修会に、別院の施設を貸与しないとする恣意が許されるかとの問題提起をどう考えるか。

 私は、平成15年(2003年)6月20日付け文書で、池谷亮真広島別院輪番に、部落解放同盟、全国自由同和会、全国部落解放運動連合会の3団体を招き、広島別院において公開で討論することを求めました。再三の要求にもかかわらず、池谷輪番より回答がありませんので、平成16年(2004年)1月17日に京都部落問題研究資料センター(旧京都部落史研究所)所長灘本昌久氏に該案内状をお送りして、差別文書か否か意見をお聞きしました。「案内状のどこが「差別」なんだか全然わかりませんね。自動車に乗っていないのにスピード違反の切符を切られているような。」とのご返事を翌日頂きました。
 宗門外の寺族研修会講師岸田秀先生や有能な弁護士等、各界の有識者に判断をお聞きしても差別文書であるとの判断はありませんでした。「まこと」と誠実は、宗門外にあり、宗門内にはありません。真宗僧侶の一人として、悲しく思うことです。私は、スッタニパータの「人間の貴賎は、生まれではなく行いによる。」「犀の角のようにただ独り歩め。」という釈尊のお言葉をかみしめております。

 いま、上記4点を明確にする。今後同様の誤りを犯さないため、差別行為の告発・指摘のルール、差別認定のルール、指摘者の開示、指摘された行為についての情報公開、冤罪の場合の当事者および冤罪原因の究明・公開と指摘に過失ある場合の関係者の処分および濡れ衣を着せられた者(無辜)の名誉回復・救済の措置、とくに権力者にたいしては差別行為の存否にかかわらずその認定等の手続違反について処分する。これらの内容を定めた規則を制定することが重要と考えます。

 貴職は、宗会議員であります。現代では、権力の正当性(レジティマシー)の根拠は、選挙のみであります。貴職の責任の重大性を鑑みられ、総局・安芸教区にたいし上記4点の回答と差別問題についての上で述べた内容の取扱規則制定の働きかけを強くお願いいたします。
                                          以上


注)赤太字は、ホームページ用に強調しました。
                                     


添付書類省略






全宗会議員に差別問題の危機を告ぐ(第2信)(平成16年(2004年)2月26日)

全76名の宗会議員に平成16年(2004年)2月26日PM11:00
広島中央郵便局より発送いたしました。


                           平成16年(2004年)2月26日
浄土真宗本願寺派
宗会議員 各位
                          安芸教区広陵東組教西寺住職
                          (監正局審事)
                          武田勝道        印

前略
 2月19日、宗会を傍聴いたしました。山本勝士議員(奈良・門徒)と藤岡崇信議員(熊本・僧侶)が、元札幌別院輪番小滝了信「差別」事件について、不二川総局に質問されました。
 山本議員は、宗門の「ほったらかし」体質を非難されました。藤岡議員は、捏造文書の作成者が秘匿されていること、および差別事件を仕立て上げ、差別をし続けてきた主要メンバーが教区基幹運動の要職にあり、従前の運動路線をとり続けていることは、第一第二の事件を惹起すると総局に対応を求められました。私も、両宗会議員と全く同じ思いです。総局は、行動すべきです。
 宗門の「ほったらかし」体質は、無能と品性の欠如が原因ですが、次に来る宗門の大樹が崩れ落ちるような崩壊を見るのがつらい。隠蔽と無責任、これがいままでの基幹運動の実態です。私は、小滝了信「差別」事件についての山本勝士議員(奈良・門徒)と藤岡崇信議員(熊本・僧侶)の質問に、宗門の良心を見ることができました。
 差別事件の利用は、遠くは酒生文彦「差別」発言事件、近くは私の案内状「差別」事件です。利用とは、他人を陥れること(邪魔者の排除)または自己の立派さの証明あるいは復讐です。「差別」事件では、利用の可能性を常に考えておく態度が必要です。小滝了信「差別」事件の場合は、北海道教区が問題なしとしていたのですから、備後教区が慎重であったら、証拠が捏造であることが判明した可能性が高かったと思われます。
 宗門は、摘発者(告発者)を匿名にし、捏造者さえも秘匿し、そして差別(疑いがある・誤解を与えかねない)と認定し得なかった事案の関与者を処分してきませんでした。差別でいったん「引っ掛けられる」と、後は一方的です。勝ち目はありません。酒生氏や小滝氏のように能力があり強い人格の人のみ最後まで闘うことができますが、そのような方でさえ人生の大切な時期を失われました。ほとんどの僧侶は、差別を倫理と捉える気持ちを失い、天災のように捉えるようになりました。そして、差別問題に巻き込まれないように慎重に行動するようになりました。

 「誤解を与えかねない」という表現(レトリック)を分析いたします。少し長くなりますがお許しください。

 中山知見広島別院輪番(安芸教区教務所長)との往復文書において、中山輪番は、どんな誤解を与えかねないのか述べていません。はっきり具体的に述べなければならないのですが、目的が保身と利用にあるので具体的に述べる必要がないのです。むしろ、ボロを出さないよう、どのようにも逃げることができるように中身を中空にしておくのが賢いのです。
 どんな文章でも、読む人間に読解能力がなければ、誤解します。裁判の判決のように、十分思索され推敲された文章でも、読み違えを生みます。「誤解を与えかねない」とは、じつに狡猾な表現です。このような表現を使用すれば、すべての文章が当てはまります。なぜなら、どんな文章でも誤解するバカがいるからです。地位欲しさに権力者におもねり、意に沿う発言をする僧侶はごまんといるからです。このような訳で、指摘が間違うということはあり得なくなります。すなわち、責任を問われることがないということを意味します。
 誤解をしたかしないかは、受手サイドのみに関わることです。差別かどうか争う修羅場で、誤解するのはバカだ。誤解するほうが悪いとはなかなか言わせてもらえません。判定権を一方が独占するのです。被差別者の痛み理論と同じです。被差別者の痛み理論は、学問的な差別議論では何年も前から疑問が呈されていますが、宗門では今もって錦の御旗にされています。僧侶の不勉強の結果です。ある時、広島別院で、区からの出向者(注イ)により次のような「指導」がなされました。
 禿頭の男がいました。頭髪がなく頭がつるっとしているので、仲間内で「鶴田浩二」と揶揄されていたそうです。鶴田浩二の左手を左耳に添えるポーズでの歌唱は有名です。病気治療の薬の副作用で難聴になった左耳で音を正確に捉えるための工夫だったそうです。禿頭の男は、ある宴会で歌いました。鶴田浩二の歌を、鶴田浩二のポーズで。彼を知らない観客から、「鶴田浩二」という大向こうが掛かりました。掛け声は、伝統です。花火にも掛け声があります。禿頭の男は、怒ったそうです。この気持ちが、被差別者の痛みの説明に使われました。掛け声を掛けた人は、自己の行為に痛みを感じる人がいることを思うべきであると。被差別者の痛み理論の行き着くところでしょう。広陵東組の皆さんは謹聴していました。ただ時間の過ぎるのを待っていたのでしょうか、心底共感していたのでしょうか。差別学習にいつも見られる光景です。私は、猛烈に反論しました。怒るほうが悪い。大向こうに、非難されるところはない。独特のポーズの「鶴田浩二」の歌に、「鶴田浩二」と掛け声を掛けるのに、事情を何も知らない人間が、「鶴田浩二」の言葉が「ツル」ゆえにハゲのからかいであるかも知れないと心優しく配慮しなければならないと言うのです。これは差別問題でも何でもない、こんなバカげたことを言ってはならないと反論しました。座は、いっぺんに険悪になりました。そして、研修会の終了時刻になりました。
 差別、差別の疑いがある、差別と誤解を与えかねない、誤解を与えかねない、不快である、際限ない言葉の消費(使い捨て)です。安芸教区の文書では、差別の文字は加えられていません。並べてみると一目瞭然です。自己保身が、バラエティ豊かな一連の表現を生んだのです。
 差別行為(発言)と指摘するには、認定の手続きが必要とされています。あいまい表現であれば、手続きを踏むことなく、とりあえず差別を批判したという実績を残して保身でき、自分はどのような状況になっても指摘が間違いにならず言い逃れができる。これが、「誤解を与えかねない」という表現です。しかし、ターゲットになった者は、彼は差別をしたと僧侶社会ではなります。小滝了信「差別」事件も、同じ構図です。捏造文書でも、捏造であると十分宗門に周知されなければ、宗門内で小滝氏は差別者であると認識されたままです。
 平成16年(2004年)2月10日(火)午前10時半頃から1時間、池谷亮真現広島別院輪番(安芸教区教務所長)と別件でお会いし、その折、私の案内状事件について、昨年4月9日以後初めて話合いをしました。そのなかで、池谷輪番は、被差別部落の人たちが「語ること」が、社会的生命を断たれるのかと発言しました。私は、非常に驚きました。あの文脈で、被差別部落以外の人たち(あるいは、人)が主語であることは明らかです。また、被差別部落の人たちの苦しみを思えと言いました。しかし、被差別部落の人たちの苦しみと差別行為(誤解を与える・疑いがある等)の認定の問題は次元が違います。苦しみが大きいから認定はデタラメで良いというものではありません。加えて、池谷輪番は、文書は出さないと言い切りました。証拠を残さないように汲々としています。差別問題に関しては文章が書けないのであれば、そのような文章を書く能力のない人間が輪番(教務所長)になっているのは問題です。
 差別問題に関し、発言においても、行為においても、また意識においても、グレーゾーンは広くあります。「疑いがある」「誤解を与えかねない」「不快である」、これらの表現で差別行為と簡単に認定することができないグレーゾーンを手続きは不要として弾圧することは、差別発言や行為を放置することから発生する危険から自己を保身するテクニックです。綺麗な言葉のみ(要するに自分で考えないということです。)の「よい僧侶」の発言の前に、一般の僧侶は差別問題について語らなくなります。
 「(差別問題は自由に議論すべきであるが、)差別問題を自由に議論すれば、当然被差別者にとって不快であったり許し難い見解が出てくるのはいたしかたのないこと」との考えが、部落解放同盟の重要な研究機関の学者(注1)より述べられています。差別問題を真摯に深めていくためには、大切な態度であると思います。この基本を押さえなければ、「差別」(捏造さえもして)追及を「よい」僧侶の証明とし、僧侶稼業に利用する行為を根本的に断つことはできません。
 アリバイ作りの平等発言でない、行為が導き出される差別問題の取組みが大切と思います。小さな一歩で良いと思います。
 最後に、宗門では不思議なことがいっぱいです。事件の当事者(関係者)が、その判定(解決)を行なうことがあります。古から「李下に冠を整さず」といいます。正しいだけではダメです。正しそうに見えなければなりません。正しそうに見えて正しいことが大切なのです。一般社会では、裁判にその典型がありますが、関係者が判定人にならない(除斥)ことは基本的ルールです。当事者の一方が、判定する(解決者になる)とはどういう神経で認められるのでしょうか。私も僧侶の末席にいますが、僧侶社会はまことに不思議です。
 宗門で差別問題が迷走している原因を述べてまいりましたが、これらの事件の周知による名誉回復、関係者の処分、再発防止をしなければ事件は再発し、宗門で本当に差別問題に取り組むことはできません。
                                   合掌

どうぞホームページ「安芸ねっと」をご覧ください。
 安芸ねっと http://www.ccv.ne.jp/home/kyosaiji/
         Googleで検索できます。(アドレス入力の手間が省けます。)




(注イ)岡部宗雄(元教区基推委相談員、同朋部会三者懇部委員)

(注1)灘本昌久「差別問題における思索と現実」233頁、231頁
    (「脱常識の部落問題」朝治武・灘本昌久・畑中敏之編所収、1998.5.15、かもがわ出版)
    灘本昌久(京都部落問題研究資料センター(旧京都部落史研究所)所長)

(注イ)は、平成16年(2004年)6月7日に追加しました。

 なお、灘本昌久氏からは、問題の発端となった僧侶研修会の「案内状」について、「案内状のどこが「差別」なんだか全然わかりませんね。自動車に乗っていないのにスピード違反の切符を切られているような。」との感想を貰いました。

「匿名」については、公務員の匿名無責任性








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