小滝透先生からの回答
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岸田秀・小滝透対談(平成16年(2004年)3月8日)の事前質問対し、小滝透先生からご回答をいただきました。

岸田秀先生のご回答は、ここをクリックしてください。

浄土真宗本願寺派(西本願寺派)安芸教区広陵東組基推委寺族部について



広陵東組基推委寺族部会の皆さんへ

 去る三月にはお招きいただき、ありがとうございました。その節は、岸田先生と一緒に講演をさせていただき、皆さんともさまざまな意見交換を出来たこと、貴重な体験ができたと喜んでおります。
 さて、その折にだされた質問の幾つかは、講演の折にお答えをしたつもりですが、何ぶん時間にも制限があり十分に答えることができなかった箇所もあり、改めて文書にして解答するのがいいのではないかと思い、ここに私の考えをまとめて皆さんにおおくりすることに致しました。
 この中には、岸田先生に向けた質問が入っており、門外漢の私が答えていいかどうか迷うものもありましたが、共同講演者ということでもあり、自分なりの見解を述べさせてもらいました。
 ちなみに、答えの中には、的を得ていないものもあり、また皆さんの見解と異なる点も多々あろうかと思いますが、ご笑納してもらえれば幸いです。
 では、皆様のますますのご健勝をお祈りして、ご挨拶に代えたいと思います。

                         平成十六年五月二十六日
                                    小滝透




広島での講演のまとめ――質問の答えに代えて





 教西寺、武田勝道(1〜6)
(1)島田裕巳は、キリスト教の本質は、「性の宗教」としています。また、原罪は性に結びつけられ、告解は主に性にまつわる事柄としています(「ミッション・スクールの功罪」54〜55ページ、『神と空』1997・2・25所収)。アルジェリアの革命家フェラウーンは「アラブは女性の膣にその名誉を埋め込んでいる」と言っているそうですが、(『アメリカの正義病、イスラムの原理病』156ページ、2002・3・30)、一神教の本質は「性の宗教」なのでしょうか。

 ユダヤ教・キリスト教・イスラームと続くセム系一神教が強烈な父性宗教であることは異論のないことだと思われます。そもそも、ユダヤ教の成立は牧畜民的父性宗教として母性神たる大地母神等と激しく戦う中から生まれ出たものでした。したがって、その父性を断固として守るため、性的放縦を極端に抑圧し、そのタブーを犯した者を神の名において裁いてきた歴史を持っています。彼らが極端な「女性嫌い(女性蔑視)」に走るのは当然のことと思われます。
 それは、当該社会の男女関係を見れば即座に分かることですが、その他にも「女性」性を連想させる大地、豊穣、魔女、聖木崇拝等々のイメージはことごとく退けています。
 この伝統は、後のキリスト教・イスラームにも受け継がれ、キリスト教は生殖以外の性行為を認めておらず、イスラームも「女性」性の発動を極力抑える教えを説いています。質問にあるムールード・フェラウーンの発言(「アラブは女性の膣の中にその名誉を埋め込んでいる」)はその典型ですが、キリスト教の場合はさらに激しく、パウロに至っては「できるならば、童貞のままでいろ」と言い切っています。
 そのため、「女性」性は意識の表面から追い出され、ことごとく無意識の中に抑圧されてゆきますが、抑圧されたからといって無くなったわけではなく、意識の抑圧が弱まるたびに表に現れ、父性と衝突を起こすことになります。一神教世界(とりわけキリスト教)に頻発する魔女狩りはそうした意識の葛藤なくして考えることはできないでしょう。
 このことから類推すれば、彼らの今後の動向は「女性」性の復権により非常な危機を迎えることになるはずです。具体的には、女性の地位向上、とりわけ教育程度が向上し、それに伴う少子化が進み、父系系譜が維持しずらくなるに従い、持ちこたえられなくなるということです。私の見るところ、もはやセム系一神教のピークは過ぎ、明かな退潮傾向を示しているように思われます。

(2)部落差別問題と性の問題は関連しますか。

 一般に、差別問題は「通婚」を拒否することから始まります。通婚が常態化すれば、差別が弱まることは明らかだからです。したがって、差別の有無や動向は当該社会の通婚状況を観察すればある程度推測可能ということになります。
 この間の状況を具体的に見てみると、国民国家たる近代日本は天皇を絶対化し、その国民(臣民)を均一な「天皇の赤子(せきし)」にすることでそれまでの身分制(士農工商)を押しつぶしたものと思われます。この社会構造の変革が比較的うまく行ったのは各身分間の通婚が急増したことからもうかがえます。
 ところが、部落の場合は階級関係の最下層に位置していたことから、それがうまく機能せず、長く差別が残ってしまったものと思われます。部落差別が常に結婚問題と強く連動するのはこのことがあるからだと思われます。
 しかし、それがこの頃あまり聞かれなくなったというのは、通婚が当たり前になり始め、たいして問題にならなくなったということでしょう。少なくとも、過去に叫ばれたような結婚差別はなっているようです。このことからも、性的課題と社会的差別は深く連動していることがうかがえます。

(3)先日お亡くなりになった網野善彦氏(中世日本史家)は、真宗は都市の宗教であると強調されています。都市の宗教は、一神教(あるいは一神教的)になるのでしょうか。

 まず、都市という存在が、多くの場合「赤の他人の寄せ集め」で成り立っていることが多いという事実です。逆に言えば、そうした現象が生じてしまう背景には、旧来の共同体が崩壊し、バラバラになった諸個人が都市におもむき、そこを新たな居住地にしていったことが挙げられます。
 しかし、人は、こうした無連帯状況で生き続けることができない限り、何らかの精神的紐帯を必要とするはずで、その時最も適しているのが「赤の他人同士をくっつけられる教え(論理)」ということになります。
 赤の他人同士をくっつけるには、普遍性や論理体系が必要ですから、それに適した教えと言えば、一神教がまず挙げられますので、都市型の宗教が多少なりとも一神教的になるのはうなずけるところでしょう。むろん、真宗の場合もそうであり、そこには旧来の共同体の破壊により、新たな紐帯を作る必要があった赤の他人が真宗の教えによって連帯感を取り戻し、新たな信仰共同体を作り上げる過程が歴史の中に垣間見えます。蓮如上人の布教が成功したのは、このような無連帯状態を脱するのに最も有効な教えと方法を用いたからと考えられます。

(4)岸田先生は、一神教は被差別グループが生んだ宗教とされますが、親鸞に被差別グループの特徴が見られますか。真宗教団に、被差別の特徴がありますか。

 岸田先生の主張は、セム系一神教(とりわけユダヤ教やキリスト教)を見る限り当たっていると考えられます。
 そもそも、支配者階級に属する人たちは唯一神をしゃかりきになって信じる必要などほとんど何もありません。唯一絶対神を信じるということは、必ず神の下の平等に行き着くはずですから(なぜなら、絶対者の前に出れば、相対的な身分の差などたちまち消し飛んでしまうからです)、それをわざわざ信じる必要がないからです。
 したがって、こうした唯一絶対神を熱心に信奉するグループは、平等を希求する被差別グループであることが分かります。仏教でもそれははっきり言えるようで、過剰に最高神を強調する集団は、その下の平等を意識する場合が非常に多く、真宗教団にもそれは当てはまると思われます。つまり、阿弥陀仏の絶対化、同胞の概念、被差別部落への浸透等々はみな連動しているということです。これは、それまでの奈良・平安仏教にはほとんどなかった概念で、そのことからも真宗の特徴がうかがえると思います。

(5)王、国家は、差別装置でしょうか。現在の国家も厳しく監視して、富の偏在を維持しようとしています。

 国家の樹立には、何よりも農業革命による余剰生産物の存在がなければなりません。つまり、膨大な余剰生産物の上に立ち、それを基盤にした支配者とそれに雇われる形になった神官・官僚・軍人・文化人等々が直接生産者の上に君臨する形がなければならないということです。こうしてできた原初的形態が四大文明期に生まれた都市国家群で、それが誕生して以来国家は延々と継続してきた歴史を持っています。
 したがって、産業革命以来、余剰生産物がますます膨大になっている現在、国家はさらに強大なものとなり、その究極の形が「統治者が中間権力をことごとく押しつぶし直接人民を支配する近代国家(ネイション・ステイト)である」のです。
 したがって、レーニンが『国家と革命』で述べたようなプロレタリアート(労働者階級)がブルジョアジー(資本家階級)を打倒したあかつきには国家はなくなるとする考えは完全に間違っていたと考えられます。社会生物学者の今西錦司氏はこのことを特に強調されていました。
 むろん、この社会構造の変革は人間生活に絶大な影響を与えており、国家ができた瞬間から必然的に起こってくる階級間闘争(余剰生産物を独占しようとする支配者とそれを奪還しようとする被支配者の抗争)、国家間戦争、自然破壊(余剰生産物とは自然搾取を前提に初めて成り立つ)は人類の宿阿のようになり、それによって荒廃した人間の精神は強力な共同幻想(宗教等)によって中和される必要性が生まれ、ここにそれまでとはまったく違った宗教が生まれる素地が生み出されたことになります。
 現在我々が見ている世界宗教とは、そのような時代的要請により誕生したものと思われます。

(6)私は、キリスト教の予定説は、他力思想と同じだと思います。他力思想と一神教についてお考えを拝聴したい。

 キリスト教の予定説が究極の他力思想であることは言うまでもないでしょう。
 そもそも、セム系一神教の神人関係は、神を絶対的な創造主、人を全く無力な被造物(造られたもの)と考えます。したがって、全知全能の創造主の前に出た無力な被造物(人)など何の力も持たない存在となる以外ありません。このことからも、力の全ての源泉は他者にあり、自らにあるのではありません。つまり、他力思想にならざるをえないわけです。予定説はこうした神人関係から必然的に出てくる思想と言えるでしょう。
 ただし、ここからがキリスト教と仏教(この場合は真宗)の違いになるわけですが、後者の場合は予定説の適用を阿弥陀仏の本願としており、しがたって全ての者が救済可能な存在と見なしているところにあります。つまり、人間の意志にかかわらず、その存在を救われるものと仏が決めてしまった予定説ということになります。
 これは、キリスト教に見られる「救われるか否かは神が恣意的に決定する」とする選択的予定説と異なりますが、いずれにしても絶対者が全権を握るということは、強力な予定説が生まれてこざるをえないことになるはずです。そして真宗にもそれがはっきりと見て取れるものと思われます。



 教伝寺、尼子成爾(7〜9)
(7)岸田先生は「母性的宗教は世界宗教になれない」として、危機的状況になると仏教原理主義じゃないけれど、結局一神教的な仏教が登場してきてしまうという意見を容認されていますが、鎌倉期の大乗仏教(浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗)の登場をすべて一神教的として受けとめられるのか、それとも多神教ないしは無神教として受けとめるのか、ご教示下さい。すくなくとも阿弥陀仏は現世を規定し契約をする絶対神ではないし、親鸞聖人も無量の諸仏の中から選択したわけで絶対神として味わってはおられなかったと頂いております。
 なお、なぜ母性的な宗教は世界宗教になれないのか、多神教的血縁的ということと、父性・母性ということは連動しているのですか。

 岸田先生がどのような理由でそのようにおっしゃったのかは分かりませんが、母性的宗教は地縁・血縁・自然等の具体的イメージと結びつきが非常に強く、その意味で具体的な事物と切り離した抽象化がされにくいことは確かでしょう。このことは世界宗教の普遍化と非常に関係しており、世界宗教は抽象化された論理体系を持たなければ世界宗教たりえないわけですから、必然的に母性的宗教はその条件を満たせなくなるというわけです。
 さて、そのような状況を考えると、鎌倉期の仏教は非常に抽象度の強い論理体系を持っているわけですから、一神教的世界宗教の色彩が濃いものと思われます。またこの時期の仏教は、そのほとんどが(一遍の時宗を除き)仏教純化運動の最中(さなか)に生まれたものであるために、神道とのつながりを意識的無意識的に断ち切っています。
 したがって、一種の仏教原理主義運動と捉えていいものと思われます。むろん、日本の場合はリーガル・マインド(法的精神)が非常に希薄な土地柄なので、セム系一神教のような絶対神との契約概念は全く見られず、それどころか末法思想を楯に取り外面規範(仏教ならば戒律)をすべからく削ぎ取るという内面原理主義として機能し、無戒律無修行仏教になってゆく歴史をたどります。そのため、両者は同じ原理主義といってもまったく正反対の考えに基づいたものと言えましょう。

(8)中沢新一氏が(仏教好き)の中で「最近ではお坊さんも平気で『幸福』という言葉を使っています。よくお坊さんが『人間はどうしたら幸福になれるでしょう』という質問をされているのを見かけます。そこでお坊さんが少し当惑してくれればいいんだけど、しないんですね。さも当然のごとく『我執を捨てれば、あなたは幸福になれる』と答えるのですが、我執を捨てれば安心は得られるかもしれないけれど、ハッピーになったりはしないだろうに、ボヌールが訪れたりはしないだろうに、と思えたりするのです」(P178)と言っています。確かに宗門の中でも現世の幸福追求型の説教をする坊さんもいます(この世は苦の世界、あなたは苦悩の真っ直中にあるが、信心を得たら幸せな感謝の日暮らしができるなど)。
 キリスト教、イスラーム教では幸福という言葉をどのように捉えているのですか。

 幸福という言葉は何も宗教が述べているだけでなく、非常に多義にわたりますので、ここではそれを宗教的な文脈で「救い」なる言葉として考えてみましょう。
 まず、キリスト教ではそれを「最後の審判後、復活にあずかって永遠の命をもらうこと」と考えています。では、どのようにそれを実現できるかと言えば、ただ内面的な信(イエスの死による人類の原罪の贖罪やその復活や昇天等を無条件で信じること)によって実現可能だと考えます。
 一方のユダヤ教やイスラームは、救いはあくまで外面規範(律法)の遵守にあり、律法を守れば救われ、守らなければ救われないと考えて、外面的な信に救いの根拠を置いています。ちなみに、両者(ユダヤ教とイスラーム)の違いは、ユダヤ教の場合が「救いの成就を民族的な集団救済(現世でのユダヤ民族の繁栄)と考える」のに対し、イスラームの場合が「ムスリム諸個人の個人救済(律法を守った諸個人が天国に入って至福にあずかること)とすることにある」と思われます。
 総括すると、ユダヤ教は外面的民族宗教、キリスト教は内面的世界宗教、イスラームは外面的世界宗教と言えるでしょう。
 ちなみに、仏教は、セム系一神教のように絶対神を第一原因に置かず、因果律の作動を第一原理に置きますから、セム系一神教とはまるで違った世界観・救済観を持っています。
 すなわち、仏教の救いは、持戒や修行たる「因」こそが「果(悟り)」を導く必要条件であると考えるわけで、神の選びや決断を救いの前提に置かないということです。
 したがって、仏教はすべからく果を求めるべく、持戒と修行に身を置くことになったのですが、日本仏教の特異性はその因たる持戒と修行を共に否定するという驚くべき革命をやってのけたことにあります。日本を訪れる南方仏教の僧侶たちが驚くのはまさにこの変革で、持戒と修行を否定するということは、悟りの必要条件を全て捨て去るということですから(持戒や修行をしたところで悟りを開くことになるとは限りませんが、それを否定すれば悟りは絶対に開かれないので驚くのは当然でしょう)、驚天動地となるのもうなずけるところです。
 日本仏教(この場合は鎌倉仏教)の救いは、自己に内在されていると見られた因(悟りの必要条件)を他者(真宗ならば阿弥陀仏の誓願)に預け、悟りに至る至難を乗り越えようとしたことにあるでしょう。

(9)先生は、ユダヤ教・キリスト教を差別された民の宗教と捉えておられます。
 したがって、復讐神としての一神教の性格を差別のルサンチマンと言われますが、親鸞聖人の教義を差別された民のための教えと思われますか。確かに東国の狩猟民や武士など、殺生を生業とする人々に受け容れられていますが、親鸞聖人自身には自分も仏法の中での(非行非善の我ら)という受けとめであり、現世での(我ら)ではなかったと思います。
 ユダヤ教・キリスト教の差別された民の宗教と親鸞聖人の教義の立場の違いと、もしあれば共通点を教えてください。

 ユダヤ教の選民思想は、常に周囲に強大な帝国があり、そこからの迫害・圧迫等々への宗教的反撃があったものと思われます。また、キリスト教の中にも長い間の歴史的受難が影響し、激しいルサンチマンが蓄積していることは間違いのないところでしょう。
 こうした深層心理を暴いた思想家や心理学者は数多くいますが、その最も激しい思想家にニーチェがいます。ニーチェがいかに激しくユダヤ・キリスト教の深層を白日にさらしたかは幾多の文書で知られていますが、そこに見られる批判の趣旨は「弱者(ユダヤ・キリスト教徒)が強者の存在に強い怨恨や嫉妬を抱き、強者を引きずり降ろすため平等や博愛なる概念を使用して執拗な批判を繰り返した」という点にあります。
  このことから分かることは、「一見、平等や愛を唱えていても、その深層には強いルサンチマンが内在し、その復讐を遂げようとしている」という事実です。
 そもそも、キリスト教がなぜあれほどまでに愛を唱え、平等を唱えるかと言えば、その背景に自らが差別されいた歴史を持っていたからに他なりません。つまり、強い差別を受けていた故に平等を言わざるをえなかったというわけです。
 ということは、平等を唱える宗教は、多少なりとも被差別的な状況を有する信者を有し、それ故彼らの持っているルサンチマンも受け容れざるをえない状態に置かれていることを示しています。この社会的状況に例外はなく、いかなる教えにもそれが当てはまるものと思われます。
 ただし、日本仏教の場合とユダヤ・キリスト教の場合は、その程度が大きく異なり、後者が持つほどのルサンチマンを日本仏教(この場合は真宗)は持っていません。それは、ルサンチマンが投影される神と仏を比較すれば比較的容易に分かります。
 ユダヤ・キリスト教の神は、何とも因業な神様です(少なくとも他宗の者から見ればそう思える)。嫉妬する、復讐する、恨みに思う、皆殺しを図る、世界を破滅させる等の行為を平然と計画し、実行し、何よりそれを公言してはばかりません。
 これを仏教の仏と比べれば、一目瞭然にその性格が分かります。仏教に見られるルサンチマンは遙かに少なくて済んでいます。むろん、それは親鸞の思想や阿弥陀仏の性格傾向を見ても歴然としています。
 両者の立場は、その歴史や社会的状況と、それが反映した神仏の性格に対照的に現れていると思われます。



 海宝寺、長門義碩
(10)本来の仏教は、仏になる為の教えという性格を持っています。しかし、百済より日本にもたらされた仏教は現世利益の霊験あらたかな仏像、教えとして伝来したようです。仏になるとは、悟りを得ることであり、悟りを除いて仏教は成立しないはずです。ただし、中国、韓国、タイ、ビルマ等、また日本仏教にしても、現世利益が花盛りです。
 浄土真宗の開祖親鸞聖人は、流罪の後、非僧非俗の立場で求道し布教されました。
 墨衣は着けていても、肉食妻帯をして一生を終わられました。阿弥陀仏の信奉者である聖人は、悪人成仏を信じ浄土を願って90歳の生涯を終えられ、私どもは、この宗祖の生き方を引き継いで現在まで来ました。もし正式な僧であれば、二百五十の戒律を守り天台の修行をしなければなりません。明治政府は、政策として妻帯を許すという方法をとりました。これによって従来の出家仏教は骨抜きになりました。
 修行の入口が先ず崩されたのです。しかし、その修行が真似事となり、観光寺院や法外の院号・院殿号、祈祷などで現在に至っています。先生方の目にはどのように見えるでしょう。

 一、もともとの仏教が仏になるための教えであったことは確かですが、日本仏教(とりわけ鎌倉仏)教は先ほども述べたように、末法思想を楯に取り、末法には成仏がかなわないので持戒・修行が無意味となったと宣言して無戒律無修行仏教になったという歴史があります。
 それ故、小乗戒たる二百五十戒を守る必要もなく、一向大乗戒たる十重戒四十八軽戒(最澄の主張)を守る必要もなく、天台の修行も要らなくなった(というよりか、それをしても意味がなくなった)ということになります。
 したがって、日本仏教の主流では「もはや仏になる為の教えは消滅した」ことになります。とりわけ真宗ではそのようになっていると思われます。
 ちなみに、破戒を政府が追認し、「仏教僧に妻帯を認める宣言をした」などということは、明かな越権行為で、このことがもとで朝鮮仏教界に多大な混乱をもたらしたことは大きな汚点と言わざるをえません(このことが後に朝鮮仏教界に適応されたため、同仏教界は妻帯をする僧侶とそれを拒否する清僧に分裂し、大きな亀裂を残してしまいました)。

 二、仏教が現世利益追求型になり果てたということですが、現世利益を全く問題にしない宗教というものもないでしょう。
 ですから、現世利益はそれそのものが悪いのではなく、それをどのように昇華してゆくのかが問われるはずです。例えば現世利益を最も重視する密教を参考にすると、「小我の欲望を大我の欲望に変えろ」ということになるでしょうか。具体的には、次のような例はどうでしょう。ドイツの作曲家ワーグナーはある時、美しい人妻に恋をしました。情熱家であった彼のことですから非常な恋だったと思います。そこで、思いあまって人妻に捧げる作曲をするのですが、懸命に曲を造りそれを完成させた時、ふと気がついてみると人妻への恋も消えていたということです。つまり、社会的に不都合な個人的欲望を芸術活動に昇華してしまったということです。
 したがって、現世利益はそれ自身否定されるものでなく、そのエネルギーをもとにして何をやるのかが問われるわけで、その方向を知らしめるのが仏教の役割ではないかと思われます。

 三、最後に日本仏教が葬式仏教になり果てたということですが、これは平安仏教が山に登ったこと(具体的には空海・最澄が高野山・比叡山にそれぞれ寺を建てたことを嚆矢とする)に由来します。古来、山は死霊の行く所ですから、そこに寺を建立し、山を支配することは死界を制することになり、ここに仏教は葬儀を取り扱うことになったわけです。
 逆に言えば、それがなければ仏教は日本人の精神界に分け入れず、外来の宗教として人々の表層意識のみに留まることになったはずです。ですから、葬式仏教になれたというのは大変な成功であったのです。
 ちなみに言えば、キリスト教が何ゆえ日本人の精神世界(とりわけ深層心理)に食い込めないかといえば、山に登らなかったからです。つまりは、死界を制する道を持たないため、葬式キリスト教になれず、未だに人口の一パーセント(100万)を突破できない状態にあります。
 ですから、葬式仏教と言われるのはある種名誉なことであり、誇りに思って良いことだと思います。少なくとも卑下する必要は全くもってありません。むろん、あまりに高い院号をふっかける行為は論外ですが。



 安芸南組誓光寺、福田明範
(12)京都大学大学院人間環境学研究科の舟木徹男さんが、「もったいない」という宗教心理についての考察」で、「精神分析は西欧近代に出現した『魂の治療』の技術であったが、それ以前にも人間精神の病を治療に導く技術が存在していたことは疑いようのない事実であるし、またそれが主として宗教の領域に委ねられていたことも否定する者はいないだろう」と述べておられますが、科学としての精神分析と宗教としての浄土真宗の類似点、相違点をご教示寝返ればありがたいと思います。合掌。

 精神分析がカトリックの告解(自らの罪を神父に告白すること)に似ているのはとみに指摘されているところです。あえて言えば、近代になりキリスト教の衰退が否定しがたくなってきた状況で、それに頼ることのできないヨーロッパ人が、告解の後釜に精神分析を見出したということかもしれません。
 ただし、両者の間には歴然とした相違があり、精神分析は「一応のところ、理性が適度に機能する段階で治療を止める」のに対し、宗教は「その普通の状態をも救われていない状態と見なし、しゃにむに救いを得させようとするところ」に違いがあるものと思われます。
 したがって、宗教の方が人間の精神により強力な作用を及ぼすため、副作用もより強いことになります。宗教によって救われる人間が多い反面、それによって被害を被る者も多いのはこのためでしょう。
 ちなみに、真宗の中から出てきた分析的方法としては「内観」があり、私もそれを試してみましたが、非常に優れた効果があると思いました。何でも、真宗の「身調べ」という伝統的な方法からヒントを得て作られたとのことですが、日本の伝統に基づいた立派な分析方法だと感心しました。



 熊本教区鹿組光顕寺、田中唯信
(13)浄土真宗の弥陀一仏の教えと、他のキリスト教・イスラム教等の一神教とは違うように思うのですが(例えば「回向」の方向等)、同じ点・違う点を教えて下さい。
 一神教が排他的なのは、どこにその要素が生じる原因また背景があったのでしょうか、教えてください。

 同じ趣旨の質問があったので、ここでは全く別の面(自然観)から両者の相違を述べてみたいと思います。
 まず、仏教(とりわけ日本仏教)は何も人間だけを相手にしているのではありません。天台本覚論(山川草木悉皆成仏)に見られるように、世界内の全ての存在者に目を向けているのです。したがって、セム系一神教に見られるように、自然を序列化した状態を正当化しているわけではありません。それがどのようなものであるかは、(旧約)聖書の創世記を見てみれば歴然としています。
「そして神は、『われらにかたどって、似せて、人間をつくり、海の魚、天の鳥、家畜、地上のけものすべて、地をはうものすべてを、これにつかさどらせよう』とおおせられた。
 神は、ご自分にかたどって人間をつくり、神に似せてつくり、男と女とにつくられた。神はかれらを祝福して、『生めよ、ふえよ、地をみたせ、地を従わせよ、海の魚、天の鳥、地上をはうものをつかさどれ』とおおせられた。
 また神はおおせられた。
『私はあたたたちに、地上に種をもつすべての草と、種をもつ各種の果樹をあたえる。これらはあなたたちの食べものとなるであろう。また、地上のすべてのけもの、天のすべての鳥、地に生きるすべてのはうものの食べものとして、青草をあたえる』と。そして、そのようになった。
 神は、そのわざを見、ひじょうによしと思われた。夕べがすぎ、朝がきて、これが第六日目である」(『旧約聖書』ドン・ボスコ社)。
 このことからも、セム系一神教の自然観が分かります。すなわち、彼らは「神」─「人」─「家畜・栽培植物」─「野生動物」というヒエラルヒーを持っており、それを基本にしているということです。加えて、セム系一神教はその神人関係を「主・奴隷」関係と見ていることから、神の代理としての人間と自然の関係もその反映として「主・奴隷」関係にならざるをえず、ここに神・人・自然関係は、「主」─「奴隷─「そのまた奴隷」という関係が築かれることになります。セム系一神教の文化圏が「自然を人の都合のいいように扱える」とする思想的根拠はまさにここにあるのです。
 ここまでくれば、いかに仏教とセム系一神教の考えが違っているか明らかでしょう。
 彼らには、人も自然の一部だとする考えはないのです。
 ちなみに、一神教が排他的にならざるをえないのは当然のことで、自らの唯一絶対神しか信仰の対象にしないのですから、後の神々や仏たちは偽りの存在と規定せざるをえず、それを実践に移した場合は、激しい衝突を起こすのは目に見えています。
 これは最高仏を頭上に拝し、一神教的になった仏教(この場合は真宗)と比較しても隔絶しているものと思われます。なぜなら、最高仏の概念は他の仏や神々を認めた上で成り立っているわけで、その他の存在を否定しているわけではないからです。
 したがって、一神教と一神教的な存在は明らかに違い、それは宗教的な確執にも歴然と現れてくることになります。



 光明寺、碓井真行
(14)どんな人間の心の中にも、ヒトラー的なものとマザーテレサ的なものが同居しているということですが、ヒトラー的なもの(破壊・暴力・残虐等)は、人間という存在の本質的なもの、決して取り去ることが出来ないのでしょうか。
 ヒロシマの原爆体験後、私はもう二度と戦争には参加はできないはずだと思っておりましたが、やはり繰り返すのでしょうか。
 アメリカは、アフガニスタンを壊しイラクを潰し、「テロはいけない!」と大合唱していますが、それに日本の年寄りまでが、同調しているのを見聞きして驚くばかりですが、どうして大衆はいつの時代も愚かで無力なのでしょうか。しっかり目を見開いて現実をみてほしいです。現実と真実との違いを教えて下さい。

 (一)人間の中に善悪両者が同居しているという問題は古来人間の興味を引くテーマのようで、代表的なところでは小説「ジキルとハイド」でお馴染みなところでしょう。
 しかし、ヒトラー的なものもマザーテレサ的なものもそれそのものが独立していないことは自明であると思われます。なぜなら、マザーテレサが所属していたカトリック・チャーチにしたところで、そこに属する聖職者が全て彼女のような人間ではなく、また時代によって全く違った見解を取っているわけですから、むしろ非常に可変的な存在であるというのが人間の偽らざる姿でしょう。
 例えば、カトリックの歴史を引き合いに出すと、「どうして熱心に隣人愛を説く一方であれほどの虐殺(中南米のインディオ虐殺等)に加担したのか」という疑問が湧いてくるはずです。つまり、右のコンテクストで言えば、カトリックにヒトラー的なものとマザーテレサ的なものが同居しているのはなぜなのか、ということです。
 答えは幾つかあるでしょうが、この間の神学論争を見てみると、カトリックがインディオ虐殺に加担していた最盛期には彼らを人間のカテゴリーに入れていなかったことが挙げられます。つまり、インディオは人間ではないのだから隣人愛を振り向ける対象ではなかったということです。と同時に、その時代にも、彼らを人間として捉えていた者もカトリックの中にいたわけで、その人たちはそれこそ献身的にインディオ支援をしています。そのため、当時のローマには海外植民地の信者から「インディオは果たして人間と見なしていいのかどうか教えてほしい」との質問が無数に寄せられたということです。
 つまり、対象をどう捉えるかにより、虐殺にも加担でき献身的活動にも従事できるということです。そしてそれを外部から見るならば、カトリックの中にジキルとハイドが同居しているように見えることだと考えられます。
 (二)結論から先に言えば、今後とも戦争は止まないものと思われます。理由の一つは先ほど述べた文明の誕生に依っています。この時、余剰生産物をもとにした階級と国家が出来たわけで、その瞬間、現在に見る階級闘争と国家間闘争は必須のものとなったと言えます。
 今一つは、人間のより根本的な在り様に依っています。
 これは、岸田先生の史的唯幻論で説明する方がいいと思いますが、人間が歴史を持つということは、その間に重大なトラウマをいくつも持ち、しかもそれは当該社会の共同幻想として引き継がれ、激しいルサンチマンの淵源になるということです。
 このことがある限り、社会的国家的衝突は不可避的に生じざるをえず、それをコントロールするのはほぼ不可能であることから、戦争は抑制しきれないと考えられます。
 ただし、ある程度の制御は可能で(つまり、10のところを7か8に抑え込むことはできるはずで)、その意味の平和運動なり国際的な抑止なりはそれなりの意味を持つことができるでしょう。
 (三)大衆が愚かなだけでなく、指導者や知識人も似たり寄ったりで、人間である限り、現実を見損ね、へまをやり、馬鹿を見、癇癪を起こし、頭を抱え、それを一時的に反省するもののすぐに同じ過ちをやり、真実と思っているのが実はとんでもない見間違いであり、平和を追求するつもりが戦争を呼び込んでしまうといった愚行をこの間延々とやってきたのが人間の歴史であり、さらに言えば、比較的真実に近い現実把握はあるものの、絶対的なそれはなく、従って試行錯誤を繰り返さざるをえないというのが現実の姿ではないかと思われます。
 したがって、急に何かすばらしい教えがあって、それを信じれば全てうまく行くという理屈の方がおかしいのであり、それを追い求めれば、かえって泥沼に陥ると考えられます。
 歴史の中でもそれは至る所に散見し、理想を追求していたところがとんでもない悪逆非道に陥った例などごまんとあります。例えば、ポルポトのカンボジア等はその典型であり、人間の理想社会を原始共同体の中に見、それをしゃにむに追求しようとした結果、国民の四分の一を殺さざるをえなくなりました(他の共産主義社会も似たり寄ったりで、その歴史を見れば理想を追求していたはずがいかに愚行を犯していたかがよく分かります)。
 したがって、唯一それから逃れられる手段とは、自らの考えにもどこか非常な穴(盲点)があるという認識をどこかに持って行動するしかないということになります。つまりは、自己を相対化することですが、これは口で言うほどたやすいことではないために(人間は完全に自己を相対化することはできず、また下手に相対化すれば中途半端な相対主義やニヒリズムに陥るため)、実行にうつすのは至難を極めますが、他に変わる手段がないことから、これをやるしか他に道はないものと思われます。



 善徳寺、友国義信
(15)なぜ日本にイスラム教やキリスト教が浸透しないのか?
  浄土真宗の教えは祈祷や迷信に頼らない理性的な生き方を示しているのに、なぜ庶民の生活の中にまで浸透してゆかないのだろうか?
 親鸞の悪人正機説を自身は罪悪深重の凡夫であると自覚することによって救われる人と、ニヒリズムに陥った人との違いはどこにあるのか?

 (一)まず日本にイスラームがはやらない理由ははっきりしています。日本社会にリーガル・マインド(法的精神)がきわめて希薄であるからです。
 一方のイスラーム(とりわけ多数派のスンニー派)は「宗教」即「律法」という法的立場を取りますから、リーガル・マインドの権化のような宗教です。
 それがリーガル・マインドがほとんどない日本に流行るはずはないわけで、ここにイスラームは将来にわたっても日本社会に根付かないという結論に達します。
 次に、キリスト教ですが、これは典型的な平野宗教で山や森林が苦手なのです。ところが日本は古来山を神々(並びに魑魅魍魎)の住む地と見なし、死界と見なし、畏怖の対象としてきました。逆に言えば、そうした場を深層心理と連動させてきたわけで、ここに踏み込まないないということは精神的な表層部分にしかタッチできないということで、これではとうてい真の布教はなしえません。
 もう一つ、キリスト教には致命的な欠陥があります。
 それは、仏教がなしたような神仏習合ができないという事実です。周知の通り、仏教は平安時代に神仏習合を完成させ(例、アマテラス女神は大日如来の権化である)、ここに自らの存在をパンテオンの一角に食い込ませたわけですが、一神教たるキリスト教やイスラームはそれができず、かえってパンテオン(万神殿)の神々を全て排除しようとするわけですから、これでは日本に定着するのは無理でしょう。
 こうした理由がたたって、キリスト教もイスラームも今後とも日本を席巻するのはほぼ不可能なものとなるはずです。
 (二)まず生活の中での理性の位置づけになりますが、理性に大きな比重を置く知識人は別にしても、庶民にとってはあまり意味は持たないはずです。つまり、理性は、近代ヨーロッパ哲学が考えたほど万能な存在でなく、人間の意識活動の一部を構成しているだけにすぎません。それどころか、近代的理性は、欲望の支配を受けることがたびたびあり、その証拠には科学的理性は産業資本の走狗となる場合が往々にあります。
 したがって、宗教が理性的になったからと言ってはやるわけではなく、またその信仰者の中に真に食い込めるわけでもないでしょう。むしろ、近代的理性が排除した呪術的精神こそが普通の庶民の信仰的温床となっていることから見て、両者のバランスを取る方が人々の深層意識に入り込めやすいように思われます。
 近代の宗教はマックス・ウェーバーのプロテスタント称賛のあおりを受け、呪術的精神を全否定した理性的宗教を高次のものにしましたが、その呪縛がまだ根強いものと思われます。近代の超克が叫ばれる中、そろそろウェーバーの呪縛から解き放なたれていいのではないかと私自身は思っています。
 (三)「自覚とは世界の中の自身の位置を明確に知ること」であり、その結果がどうであれこれで一応精神は安定します。例えば、夜襲をかけられた戦闘場面に例えれば、それが最も不安なのは敵がどの程度の戦力でどの方面から攻撃を仕掛けてきているのか分からないことで、それが分かれば例え不利な状況でも新たな対応が取れ、ここに兵士の精神は一応のところ安定します。
 一方、そうしたポジションの取れない状態、換言すれば、世界の中でどのようなポジションにあるのか分からない状態は、人間を非常なパニックに陥れ、それが常態化した場合にはニヒリズムに陥らざるをえません。例えば、社会学ではそれまで信じていた価値観が総崩れになった場合を「アキュート・アノミー(急性無規範状態)」と呼んでいますが、これは社会的ニヒリズムの典型だと思われます。ちなみに、日本も今次大戦に敗れたため、それまでの価値観が一変し、それを信じていた人々は何を信じていいのか分からなくなり、現在に至るまでアキュート・アノミーに取り憑かれています。昨今の社会的規範の喪失は元をたどれば、そこにまで行き着くものと思われます。



 専光寺、季平弘順
(16)「エディプス・コンプレックス」に対応される言葉として「アジャセ・コンプレックス」が心理学の面でよく用いられます。ギリシャ悲劇の中に出てくるエディプス・コンプレックスが男の子が母親に愛着を持ち、同性の父に対して反発敵な感情を持つことであるのに対し、「アジャセ・コンプレックス」の場合は、母を愛するがゆえに母に反抗しようとする感情だと理解しています。この点について精神分析の立場から解説していただきたいと思います。
 世界の宗教を大きく分けると母性的宗教と父性的宗教に大別することが出来ると思います。神学的宗教的レベルで考えますと、ポール・ティリヒの言う「存在論的なタイプ」の信仰と「道徳的なタイプ」の信仰との区別に対応するものだと思います。
浄土真宗はどちらのタイプに属するとお考えでしょうか。

 これは当然岸田先生に答えてもらうべき質問でしょうが、私のごく簡単な感想を言えば、子にとって父母は最初の人間関係を取り持つ対象であり、かつそれが非常な権威・権力を持つ存在で、それ故最大のストレス要因になるわけですから、彼らがさまざまなコンプレックスを持つのは当然であると思われます。
 つまりは、父性に対しては過剰な重荷(抑圧)を、母性に対しては非常な吸収恐怖を覚えるわけで、どちらにしても精神的危機に陥ることは不可避だと思われます。したがって、青年期までにこの危機をうまくクリアーできない場合は、父原病や母原病になるわけで、例えそれがかろうじてうまくクリアーされた場合にも、俗に言うマザコンやファザコンの形で残っており、それがもとでさまざまな奇妙な行動や神経症状を取ることになって行きます。
 そうした分岐の一つとしてフロイトが注目したのがエディプス・コンプレックスなのでしょうが、つらつら考えてみるに、このコンプレックスを自覚できる日本人は少ないのではないかと思われます。少なくとも、私自身、胸に手を当てて考えても社会的に観察しても、それが自覚できないのです。
 これを宗教的に還元すれば、おそらくこれは、父性的宗教の権化たるユダヤ・キリスト教社会と母性的宗教が支配する日本社会の大きな違いではないかと思われます。したがって、日本にはアジャセ・コンプレックスの方が優勢で(それ故神経症状としては母原病の方が深刻で)、その分エディプス・コンプレックスは希薄なのではないかと思います。
 ちなみに、真宗の場合も、他の日本宗教と同様に母性的宗教に区分されると思いますが、親鸞に見られる信仰規範の徹底ということでは父性的な色彩もかなり強く、神仏習合が常態の日本宗教界の中にあっては異色の存在と言えましょう。



 (17)善通寺、古川知行
 他力本願の教えの広さに民衆は十分に教えが理解できるか。

 まず一般論から言えば、浄土教は、自己の存在の無力さを相当程度自覚しなければ信仰できない存在であろうということです。つまり、あるアクションを起こしてみて、それがうまく行かなくてあがきにあがいて頭を抱え、ある種の絶望を感じてでないと他力に目覚めないということです。
 したがって、そこには、人間の限界たる死であるとか、無常であるとか、無力であるとかといったものが媒介になり、それが日常の中で先鋭な形を取らない限り、民衆であろうが知識人であろうが、他力には顔を向けないことになります。
 したがって、現在のような平和で飽食な時代にはなかなか他力思想は相手にされず、浄土系の仏教には不本意な時代であるのかもしれません。ただし、いくら平和で飽食な状態でも人は常に何らかの危機を抱えているわけですから、それが解決できない場合には他力志向に向かわざるをえず、その教えが無に帰したわけでないことはむろんですが。


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