岸田秀先生からの回答
目次ページへ

岸田秀・小滝透対談(平成16年(2004年)3月8日)の事前質問対し、岸田秀先生からご回答(平成16年(2004年)6月23日)をいただきました。

小滝透先生のご回答は、ここをクリックしてください。

浄土真宗本願寺派(西本願寺派)安芸教区広陵東組基推委寺族部について


お詫び
アップが遅れ、岸田先生および皆様にご迷惑をお掛けいたしました。心からお詫び申しあげます。岸田先生には、ご帰京後直ちにフロッピィで郵送いただきました。本日(7/5(月))郵受(小生の造語)し、RICH TEXT CONVERTERでRUPOからWORDに変換し、HTMLでHPにアップいたしました。日曜の郵便物配達はなく月曜配達になりました。少しでも早く皆様にお読みいただきたいので、変換ミスがあるかどうかチェックしていません。ご了承ください。    (平成16年(2004年)7月5日武田勝道記)

岸田秀先生から、反論・疑問・質問があれば、できるかぎり回答をしたいとeメールをいただきました。
広陵東組寺族部あてのeメールですが、「安芸ねっと」をご覧の方の反論・疑問・質問もおつなぎいたしたいと思います。
また、小滝透先生への反論・疑問・質問があれば、お寄せください。小滝先生にご回答をお願いしてみます。
お名前とご住所をご記入のうえ、教西寺のアドレスへeメールしてください。 
                                                                (平成16年(2004年)7月7日武田勝道記)

岸田秀先生と再び(浄土真宗の他力思想とキリスト教の予定説)


「岸田秀先生からの回答」「岸田秀先生と再び」が、このたび出版された
岸田秀「日本人はどこへゆく」青土社(1,900円)に掲載されています。
書籍でお読みいただければ、また印象が違うかと存じます。(H17.07.23)


質問内容の詳細は、事前質問をクリックしてください。


 Q1)島田裕巳氏は、キリスト教の本質は、「性の宗教」としています。また、原罪は性に結びつけられ、告解は主に性にまつわる事柄としています(島田裕巳「ミッション・スクールの功罪」54〜55ページ、『神と空』平成9(1997).2.25所収)。アルジェリアの革命家フェラウーンは、「アラブは女性の膣にその名誉を埋め込んでいる」といっているそうですが(岸田秀・小滝透「アメリカの正義病・イスラムの原理病」156ページ、平成14(2002).3.30)、一神教の本質は、「性の宗教」なのでしょうか。鯖田豊之(元京都府立医科大学教授)「肉食の思想」(昭和41(1966).1)は、ヨーロッパ文明の性格に肉食を重視しています。一神教やセックス観に肉食の影響を考えることができますか。一神教に特徴的なセックス観がありますか。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)親子関係と性関係は人間と人間の最も基本的なつながりです。子は母親の胎内に宿り、産道を通って生まれてきます。男と女はそれぞれの自我の最大の拠り所であるそれぞれの性器と性器を交えて一体となります。母と子、男と女の肉体的つながりは明らかで具体的です。自我は何らかの形で他の存在との、他の人々との、世界とのつながりに支えられなければ存立し得ないわけで、このような母と子、男と女の肉体的つながりは個人の自我を支える最も自然なつながりです。
 一方、一神教は唯一絶対神を設定し、この神との観念的つながり、この神への崇拝と服従を個人の自我存在の唯一絶対の根拠とする宗教です。したがって、神とのつながりの絶対性、唯一性を守るためにはそれと競合する他のつながり、それを打ち負かしかねない他の具体的つながりを否定しなければなりません。言い換えれば、親子関係と性関係をそのまま自我の根拠として容認すれば一神教は成り立たないのです。一神教の神が嫉妬深いゆえんです。この神は「汝我面の前に我の外何者をも神とすべからず」(「出エジプト記」第二十章第三節)、「汝の神は嫉む神なれば・・・」(「出エジプト記」第二十章第五節)と言います。要するに、俺は嫉妬深いのだから、俺以外の誰をも神としてはならない、親であろうが異性であろうが、愛したり崇拝したりしてはならないと言っているのです。
 親子関係は、既定の血のつながりであって、任意に結んだり切ったりすることはできませんが、性関係は赤の他人が新しく結ぶことができる関係であり、それゆえ、一神教の神と、性関係とは、他の存在とのつながりを求める同じ人たちをマ−ケットとして顧客を奪い合うライバル、商売仇ということになります。親子の血のつながり、特に男女の肉体的つながりに安住し、そこに安らぎを見出す人たちを一神教に帰依させることはできません。一神教を普及させるためには、商売仇のマ−ケットに侵入し、これを荒らさねばなりません。肉体的つながりに基づく彼らの安らぎをぶち壊し、彼らに肉体的つながりを断ち切らせなければなりません。こういう点で、一神教は祖先神を崇拝するような宗教、性愛の歓びを法悦に含めるような宗教とは根本的に異なっています。
 例えば、イエスは言います。「それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分たん為なり。人の仇はその家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず」(「マタイ伝福音書」第十章第三十五、三十六節)。要するに、イエスは人々に家族を捨てて俺のところにこいと言っているのです。
 キリスト教は家族関係以上に性関係を厳しく禁圧します。それは、今言ったように、神への愛と異性への愛とは同じ欲望に根差し、同じ欲望を満足させる同質同形のものであって、つまり、言ってみれば同じ用途の競合商品であって、商売仇に顧客を奪われれば、それだけ自分の顧客は減るからです。一方に憧れる者は不可避的に他方をないがしろにせざるを得ないのです。男(女)を愛し慕い、男(女)に献身する女(男)は決して神を敬わない。男女の愛は一神教の不倶戴天の敵です。大地母神や男根崇拝や女陰崇拝を卑しい土俗信仰として軽蔑するのは不倶戴天の敵だからです。
 カトリックが神父の妻帯を許さないのは神を愛していれば妻を愛する必要ないし余裕はないはずだと考えるからです。修道女は修道院に入るとき、イエス・キリストと結婚するということになっていますが、それも同じ思想に基づいています。いずれにせよ、キリスト教はそもそもの初めから性に敵対していました。パウロは「我は婚姻せぬ者および寡婦に言ふ。もし我が如くにして居らば彼等のために善し。もし自ら制すること能はずば、婚姻すべし。婚姻するは胸の燃ゆるよりも勝ればなり」(コリント前書第七章第八節)と言っています。「我が如くにして居らば」というのは「俺のように独身ならば」ということで、独身ということは独身を謳歌して色事を楽しむということではなくて、性交しないということです。結婚は意志薄弱な者のためのやむを得ない必要悪なのですが、その結婚すらも神の裁可がなければ許されません。神を介してでなければ、婚姻の秘蹟を受けるのでなければ人は人を愛し、結婚してはいけないのです。そしてその上、キリスト教では、結婚内の性交すら自由にやってはいけなくて、子供をつくるため以外の性交は罪でした。快楽のために避妊して性交するのはもってのほかでした。さらにその上、性交体位まで規定されており、正常位でしなければならず、後背位には最も重い罰が加えられました。聖母マリアの処女懐胎の神話に見られるように、キリスト教が処女を重視するのは、言い換えれば、聖母マリアが処女でなければならなかったのは、非処女ならば神以外の者と愛を通じたことになるからです。なぜこれほどキリスト教が性にこだわり、性を敵視したかの理由は、以上述べてきた理由以外には考えられません。キリスト教は、商売仇である性愛を完全に支配下においていないと気が済まないのでした。今、キリスト教を問題にしましたが、そもそも性に対するキリスト教の敵対はユダヤ教からきているし、イスラム教も性に関してはキリスト教と同じようなものです。要するに、一神教は、人々のすべての愛を神が吸収し、独占しようとする苛酷で傲慢な宗教なのです。

 Q2)差別の問題、性の問題、一神教の問題は関連していますか。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)個人の差別意識というか差別感覚というか、その深さを計る尺度の一つに、彼が差別している相手(ユダヤ人、黒人など)と何を一緒にするのが嫌かというのがあります。テニスとか、ゴルフとか、食事とか、仕事仲間とか、政治活動とか、クラスメイトとか、ル−ムメイトとか、セックスとか、結婚とか。ほかのどのようなことでも一緒にするのはかまわないが、結婚だけは嫌だというのが最後に残ります。結婚にためらいがないのなら、差別意識はないと言えます。セックスは、一時の遊びとしてのセックスもあり、また、男と女で差別意識との関連が異なるので、あまり確かな尺度にはなりません。要するに、差別の問題は性の問題というより、結婚の問題と関連しています。ある人を差別するということは、その人とつながりをもちたくない、かかわりたくないということで、結婚は最も親密なつながりだと言えますから、差別意識は結婚に関して最も表面化しやすいのです。 拙著『一神教vs多神教』で指摘したように、ユダヤ教は、それぞれの自分の部族、民族から切り離され、エジプトで奴隷にされて悲惨な状況に追い込まれていてエジプトから集団逃亡した連中がつくった宗教でした。部族共同体、民族共同体にいる人たちは血がつながっている祖先神などを信仰しているものですが、ばらばらなそれぞれの共同体から追われていた逃亡奴隷たちは、どの共同体とも関係のない抽象的な神を持ってこざるを得なかったのです。そして、悲惨な状況に追い込まれていた彼らは一致団結して戦うために、強力な唯一絶対神を必要としました。一神教はこのように差別され、危機に瀕した人たちがすがる宗教なのです。血縁共同体のなかでのんびりと暮らしている人たちは一神教など要らないのです。
 現在、一神教にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教がありますが、これは三つの宗教というより、一つの宗教の三つの宗派であると言えます。今言ったように、ユダヤ教は差別された逃亡奴隷の宗教ですが、キリスト教は差別されたユダヤ教徒のなかでさらに差別されたイエス一派がつくった宗教、イスラム教も周辺の帝国に差別されて放浪していた遊牧民がつくった宗教です。この宗教の唯一絶対神、アラ−のもとにアラブの諸部族は団結して戦い、サラセン帝国を築いたのでした。そういう意味で、被差別という状況と、一神教とは深い関係があります。
 仏教には神がいないから、無神教とも言えますが、仏を一種の神と見れば、多くのいろいろな仏がいるのだから、多神教とも言えます。しかし、仏教のなかにも、確かに一神教ではないものの、ある特定の仏だけをもっぱら信仰したり、他の宗派を邪教として排除したりして、いくらか一神教的なところがある宗派があります。浄土真宗や日蓮宗です。これらの宗派は、支配階級や特権階級ではなく、主として差別され、虐げられた下層階級に普及した点、何らかの危機的状況において成立した点で、ユダヤ教やキリスト教などと共通するところがあります。そのため、一神教的な要素があるのでしょう。わたしは、近代天皇制を擬似一神教だと言っていますが、近代天皇制も、近代日本が圧倒的に強い欧米諸国に植民地化される危険に曝され、団結して欧米諸国に対抗せざるを得なくなった結果、その拠り所とするために一神教的なものになってしまったのでしょう。天皇を唯一絶対神のような神聖不可侵な神に祭り上げるとか、侵略した近隣諸国に神道を押しつけるとか、まさに一神教の真似事をやっていましたが、もちろん、生きている人間が神だったり、ご真影を拝んだり、一神教ではないことは明らかでした。
 同じように、スタ−リン崇拝、ヒトラ−崇拝、毛沢東崇拝も擬似一神教だったと言っていいいでしょうね。これらの個人崇拝の背景にそれぞれの国民の危機的状況があったことは明らかです。

 Q3)部落差別と性の問題とは関連があるでしょうか。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)日本の部落差別もユダヤ人差別や黒人差別と同じような現象ですから、同じように、セックスの問題や結婚の問題と絡んでいると思います。

 Q4)都市の宗教は一神教、あるいは一神教的になるのでしょうか。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)都市というのは、自ら逃げ出したか、あるいは弾き出されたか、とにかく田舎から、村落共同体から出てきた連中が集まっているところです。それぞれの村落共同体にはそれぞれの、宗教、信仰形態があるでしょうが、都会に集まってきた連中をそのどれか一つの宗教でまとめることはできないので、どれとも関係のない新しい宗教をつくる必要があり、また、彼らは故郷を失った不安、孤独感、無力感、被迫害感に囚われがちで、それから逃れようとしますから、それはどうしても観念的、抽象的、普遍的、絶対的なもの、すなわち一神教的なものにすがることになりがちでしょう。しかし、それが一神教の成立までゆきつくとは限りません。そのためには、かつてのユダヤ人のように相当ひどく追い詰められる必要があるでしょう。

 Q5)岸田さんは、一神教は被差別グル−プが生んだ宗教だとしていますが、親鸞に被差別グル−プの特徴が見られますか。真宗教団に被差別の特徴がありますか。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)わたしはユダヤ教の成立に関してそいう理論を展開したのですが、親鸞が開いた浄土真宗は、さっきも言ったように、一神教ではないにしても、一神教的な要素をいくらか含んでいるようですね。よくは知りませんが、その限りにおいて、親鸞本人はさておき、親鸞についていった人たちは、自ら被差別階層に属していたか、あるいは少なくとも被差別階層に同一視していた人たちだったのではないかと思います。

 Q6)王、国家は差別装置でしょうか。現在の国家も、出入国を厳しく監視して富の偏在を維持しようとしています。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)国家とは、自分たちは同じ民族に属するとか、先祖以来同じ血でつながっているとか、同じ信仰や理想を信じているとか、同じ苦難の歴史をともにしてきたとかの何らかの共同幻想を共有している人たちが、自分たちを特殊化し、他の人たちを排除し差別化して形成した組織ですから、当然、他国を差別する差別装置の面があるでしょう。国家の成員、すなわち国民は、自分のアイデンティティの根拠を多かれ少なかれ国家においていますから、ともすれば自国を他国より優越したユニ−クな存在だと思いがちで、国際紛争の一因もそこにあると考えられます。しかし、われわれが、個人として自我をなかなか克服できないように、国民として国家を克服することもなかなかできないのではないかと思います。

 Q7)わたしは、キリスト教の予定説は他力思想と同じだと思います。他力思想と一神教について、お考えを伺いたい。(質問者 教西寺 武田勝道)
 A)予定説も他力思想も詳しくは知りませんが、この二つは、一見、同じようでいて重要な点で違うのではないかと思います。キリスト教の予定説は、カルヴィニズムに最も典型的に現れていますが、全知全能の唯一絶対神がすべてを創造し、すべてを決定するのであって、完全に無知無能の個人は、神のなすことについてまったく何も知り得ないし、それを微塵も動かすことはできないという思想です。個人がどれほど努力して善行を積もうが、彼が救われるか救われないかには何の関係もなく、あらかじめ神が決めているのです。この思想では、絶対的に偉大な神と、最低にみじめな個人とが著しい対比を成しています。神の慈悲にすがっても何の効果もないのです。これは個人を貶め、絶望させる思想ではないでしょうか。
 浄土真宗の他力思想は、決して個人を貶めているのではなく、自力の努力の限界、自力に頼るむなしさを説くことによって、人間が陥りがちな己惚れと傲慢を戒めているのだと思います。人間は、ともすれば、自分勝手な欲望を主観的に誠心誠意の真摯な望みだと思い込み、自分の力を過大評価し、この俺様ががんばりさえすれば、思い通りになるのだ、俺様の信心が通じないはずはないのだと信じがちなものですが、他力思想は、世界は個人が自由に動かせるようなものではないのだ、個人が悟りと救いに達するのはひとえに阿弥陀仏の本願力によるのであると説いて、仏の慈悲にすべてを任せて念仏し、謙虚に待つことを教えているのではないかと思います。そして、当てにしないで待っていれば救われるのです。キリスト教の予定説の神は、冷酷無情な感じですが、他力思想の仏は、当てにするのはよくないが、慈悲をもって暖かく見守ってくれているかのようです。言ってみれば、予定説は「自力では救われない」と説き、他力本願は「自力なしで救われる」と説くのではないでしょうか。



 Q8)なぜ、母性的宗教は世界宗教になれないのか。多神教的、血縁的ということと、父性・母性ということは連動しているのですか。(質問者 教伝寺 尼子成爾)
 A)われわれは母親から生まれるのですから、母親とのつながりは具体的、現実的です。宗教というものは、われわれに恵みを与えてくれる偉大な存在を崇拝するのが出発点ですから、まず初めは、母性的宗教となるのは当然過ぎるほど当然です。そして、最初の中心的恵みは母親からくるわけですが、現実に周りを見渡せば、母親のほかに、太陽、大自然、山川草木など、われわれに恵みを与えてくれるものはいっぱいあります。母性的宗教が多神教的になるのは当然の成り行きです。
 しかし、母性的宗教は母親との血のつながりが信仰の基盤ですから、どれほど拡大解釈したとしても、家族共同体、村落共同体、部族共同体以上には広がりません。したがって、部族や民族を超えた世界宗教にはなれないと思います。父親とのつながりも、彼の精子がわれわれの生命の根源なのだから、具体的、現実的ではないかと言われるかもしれませんが、そのような生物学的理論はあとからくっつけた理屈であって、父親とのつながりは、母親とのつながりと比べて、抽象的、観念的です。限りなく拡大することができます。世界宗教となるためには、父親または父親的存在を神にする必要があります。

 Q9)岸田さんは、危機的状況になると、仏教原理主義じゃないけど、結局、一神教的な仏教が登場してきてしまうというようなことを主張しますが、鎌倉期の大乗仏教(浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗)の登場をすべて一神教的と受け止められるのか、それとも、多神教ないしは無神教として受け止めるのか、ご教示ください。少なくとも、阿弥陀仏は現世を規定し、契約する絶対神ではないし、親鸞聖人も無量の諸仏の中から選択したわけで絶対神として味わってはおられなかったと頂いております。(質問者 教伝寺 尼子成爾)
 A)鎌倉期の大乗仏教のみならず、仏教は基本的に多神教ないし無神教であって、ただ、危機的状況になると、いくらか一神教的な色彩を帯びた宗派が現れるということです。それがなぜかはすでに説明したと思います。それを仏教原理主義と言ってもいいと思います。念のため断っておきますが、それはあくまで「一神教的」、つまり一神教的傾向があるということであって、「一神教」ではありません。
 キリスト教はあくまで一神教で、仏教はあくまで多神教ないし無神教で、その点は変わらないのですが、状況によってそのあいだに多少の揺れがあるということです。例えば、キリスト教は、ヨ−ロッパに伝播してゆく過程で安定した地位を占めるようになるにつれて、聖母マリアや聖人たちが崇拝され、神々ではないが準神々の列に加わっていくらか多神教的になりました。イスラム教は、もともと一神教ですが、イスラム世界がアメリカ帝国主義によって危機に曝されると、さらに過激な原理主義の一神教になりました。一神教的な動きは危機に対する反応なのです。

 Q10)キリスト教、イスラム教では幸福という言葉をどのように捉えているのですか。(質問者 教伝寺 尼子成爾)
 A)よく知りません。だいたい、仏教でもキリスト教、イスラム教でも、とにかく宗教では幸福ということはあまり問題にしないのではないですか。仏教では悟りを開いて安心立命の境地に達するのが信仰の要諦ではないのですか。安心立命の境地と幸福とは違うでしょう。苦しみのなかで悟りを開くのではないのですか。悟りを開いても苦しみが消えるわけではないでしょう。何しろ、この世は四苦八苦なのですから。キリスト教、イスラム教だって魂の救済を求めますが、魂の救済も幸福とは違うでしょう。幸福というと、何か近代功利主義的目標のような気がしますが・・・。

 Q11)岸田さんはユダヤ教・キリスト教を差別された民の宗教と捉えています。したがって、一神教の神は復讐神であり、その性格は差別されたルサンチマンを特徴としているということですが、親鸞についてはどうですか。親鸞の教義も差別された民のための教えだと思いますか。ユダヤ教・キリスト教の差別された民の宗教と、親鸞聖人の教義との違いと、もしあれば、共通点を教えてください。(質問者 教伝寺 尼子成爾)
 A)ユダヤ教は、はっきり言って、差別され、虐待された奴隷の恨みの宗教です。ユダヤ教の神、ヤハウエは嫉妬深い復讐神、厳罰を科する神、戦争神です。その後もユダヤ人は、ご存じのように、国を滅ぼされ、世界を流浪し、迫害され続けました。ユダヤ人はこのような神を信じることによって辛うじて迫害に耐えてこれたのだと思います。
 キリスト教は、そのようなユダヤ教に対する反発と批判から出発したところがあり、愛と寛容の宗教と称してはいるものの、やはり源流のユダヤ教に流れるルサンチマンを引き継いでいることは否定できません。若くして刑死した者が教祖であるということと、多くの弟子と鳥獣にさえ囲まれて穏やかに入滅した者が教祖であるという違いは、この二つの宗教の本質的な違いに尾を引いています。
 また、わたしはマルクス主義をキリスト教の一派だと見ていますが、マルクス主義も、人民の権利の平等、正義の実現を教義としてはいるものの、根っこのところでは、差別され、搾取されたプロレタリア−トの、ブルジョアジ−に対する恨みと復讐の衝動に動かされており、やはり源流のユダヤ教に流れるルサンチマンを引き継いでいる点で、キリスト教と同じです。マルクス主義革命に成功して政権を獲得した権力者がどれほど残酷であったかは、このことを証明しています。
 親鸞の教義は、確かに被差別階層に受け入れられたということはありましたが、差別された恨みを晴らすという要素があまり見当たりません。それはやはり、一神教的なところはいくらかあるものの、何といっても仏教の流れのうちにあるからだと思います。



 Q12)本来の仏教は仏になるための教えという性格を持っています。仏になるとは、悟りを得ることであり、悟りがなければ仏教は成立しないはずです。しかし、百済より日本にもたらされた仏教は現世利益の霊験あらたかな仏像を介して伝来したようです。そして、現代日本の仏教にしても、現世利益が花盛りです。明治政府が僧侶の肉食妻帯を許すという政策を取ったことも大きいです。そのため、従来の出家仏教は骨抜きになりました。修行の入り口がまず崩されたのです。修行は真似事となり、観光や、法外な院号・院殿号、祈祷で稼ぐ寺院が目立っています。こうしたことは世間の目にはどう映っているでしょうか。(質問者 海宝寺 長門義碩)
 A)宗教に現世利益はつきもので、われわれの信仰の大きな動機の一つが現世利益にあることは否定できないし、別に非難すべきことではないと思います。僧侶だって生活しなければならないし、寺院を維持するための費用も大変です。それを信徒の喜捨や賽銭で賄うのはいいのですが、現世利益が欲しい信徒の弱みにつけこむとか、現世利益を餌にして喜捨を強要するとか、死者を弔い、成仏させたい遺族の気持ちに乗じて大金を貪るとかになると、いろいろ問題がありますね。これは人々の信仰心が薄れ、なかなか自発的に喜捨をしなくなったことと関連がありますがねえ。いずれにせよ、そのようにして得たお金を宗教的目的のためとかに使うのなら大いに結構ですが、限度を超えた度外れに贅沢な生活や不道徳な個人的享楽のために使う僧侶が一部にいるらしいですね。大部分の僧侶はまじめに戒律を守り、修行しているのでしょうが・・・。京都なんかにゆくと、本当かどうかは知りませんが、タクシ−の運転手や店の人などから「あの坊主はどこそこに妾を囲っていて・・・」なんて話をよく聞かされます。民衆のなかに僧侶に対する疑惑と不満が溜まっているのでしょう。こういう僧侶の存在は人々の信仰心を打ち砕くために最大の貢献をしていると言っていいでしょう。



 Q13)京大の船木徹男さんが「精神分析は西欧近代に出現した魂の治療の技術であったが、それ以前にも人間精神の病を治療に導く技術が存在していたことは疑いようのない事実であるし、またそれが主として宗教の領域に委ねられていたことも否定する者はいないだろう」と述べていましたが、科学としての精神分析と宗教としての浄土真宗の類似点、相違点をご教示願えればありがたいと思います。(質問者 安芸南祖誓光寺 福田朋範)
 A)精神分析運動は一種の宗教運動であったとはよく言われることです。教祖はもちろんフロイドです。国際精神分析学会という教会組織もあります。支部が各国にあります。初め教祖フロイドのもとに集まってきた弟子たちはほんど全員がユダヤ人でした。教育分析という入信儀礼もあります。正式の精神分析者に精神分析を受けないと正式の精神分析者と認められないのです。精神分析療法(カトリックの告解)は、分析者(神父)と患者(信者)との一対一の関係のなかで患者(信者)が分析者(神父)に自分の症状・悩み(罪)を語るという形を取ります。教祖フロイドは、アドラ−やユングやライヒなど、自分の理論(教義)に反対する弟子たちを精神分析学会から追放(破門)しました。彼の著作が教典で、その後多くの精神分析者が現れて精神分析の本を無数にたくさん書きましたが、もっぱら典拠にされるのは依然として彼の著作です。
 精神分析運動が宗教運動に類似していたのは、ある意味で当然であって、精神分析はキリスト教の信仰が衰えてその後釜として出てきたものだからです。
 精神分析はこのように宗教と関係が深いですが、人間の見方において浄土真宗ともよく似ているところがあります。例えば、『歎異抄』にかの有名な「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という文句がありますが、これをわたしは、「自分を善人だと思っているような無自覚な人だって救われるかもしれないのに、己れを見極め、己れの悪を直視し、自分が悪人であることを知っている人が救われるのは当然だ」ということだと解していますが、精神分析療法はまさにこのような無自覚な善人に悪人としての自覚を促すことをめざすのです。例えば、「わたしの父ほどすばらしい父親はいない。わたしのことを本当に愛してくれ、わたしのために身を捨てて尽くしてくれた。この父のためなら、わたしはどうなってもいい。わたしは父のことを心から愛している」と信じている患者が分析者のところにやってきます。彼の話を聞くと、彼の父親は理想的ないい親で、彼は献身的な孝行息子です。何の問題もないはずです。ところが、彼は会社の上司との人間関係がうまくゆかないとか、いろいろな神経症的症状を抱えたりしています。分析療法を進めてゆくと、彼は、幼いとき、父に虐待されていたことを思い出し、今も、父のあれこれの態度に大いに不満で、本当は父を憎んでいることがわかってきました。父への憎悪は深く無意識へと抑圧されていました。「献身的な孝行息子」という彼の自己像は自己欺瞞でした。このような自己欺瞞をはぎ取り、彼の心に潜む悪−父への憎悪−を自覚させることが分析療法のめざすところで、そうなれば神経症は治り始めるのですが、これは仏教の悟りと似ていないでしょうか。



 Q14)どんな人間の心の中にも、ヒトラ−的なものと、マザ−テレサ的なものとが同居しているということですが、ヒトラ−的なもの(破壊、暴力、残虐など)は、人間という存在の本質的なもの、決して取り去ることができないのでしょうか。(質問者 光明寺 碓井真行)
 A)そうは思いません。ヒトラ−的なものも、マザ−テレサ的なものも、一神教の文化、すなわち、抽象的、観念的規範に基づいて世界を構築しようとする文化に特徴的な現象です。ある抽象的、観念的規範を絶対に正しいと信じ、それを徹底的に実践しようとすると、ああいう人物ができあがるのです。正反対の両極端にかけ離れていますが、ヒトラ−とマザ−テレサとは同じ盾の両面です。ヒトラ−も一種の理想主義者でした。自分が正しいと信じた理想のためなら、細かいところまでないがしろにせず、全身全霊を捧げて献身する厳しい人でした。幸いなことにと言うべきか、残念なことにと言うべきか、抽象的原理を重んじない日本文化には、ヒトラ−のような人物も、マザ−テレサのような人物もほとんど出る余地がないと思います。

 Q15)ヒロシマの原爆体験後、わたしはもう二度と戦争には参加できないはずだと思っておりましたが、やはり繰り返すのでしょうか。
 アメリカはアフガニスタンを壊し、イラクを潰し、「テロはいけない!」と大合唱していますが、それに日本の年寄りまでが同調しているのを見聞きして驚くばかりですが、どうして大衆はいつの時代も愚かで無力なのでしょうか。しっかりと目を見開いて現実を見て欲しいです。(質問者 光明寺 碓井真行)
 A)人類は未来永劫に戦争をやめないのではないかと絶望することはないと思っています。実際、戦争をしょっちゅうやっている民族、国民と、あまりやらない民族、国民があります。同じ民族、国民でもやっている時代とやっていない時代があります。日本は、戦国時代には諸大名が覇権を争って日本中で戦さをしていましたが、そのあとの徳川時代の二百数十年は国内的にも対外的にも平和でした。徳川時代の平和は戦国時代の殺し合いの愚かさを反省して獲得した成果でした。人間が知恵を働かして平和を手に入れた歴史的例の一つです。残念なことに、この成果は外国との関係を考慮に入れていなかったためにペリ−来航によって破綻し、近代日本は、ほぼ十年おきぐらいに戦争をやるような国になりました。しかし、戦争に負けるとそのあとまた数十年は平和でした。日本に比べると、ヨ−ロッパは古代から近代に至までしょっちゅう戦争をしていましたね。ウェストファリア条約を結んで宗教戦争に終止符を打ったこともありましたが・・・。要するに、あまり戦争をしない民族、国民もいるし、戦争をしない時代もるし、戦争に耽っていた国でも、戦争を少なくともしばらくはやめたこともあったのですから、あきらめないで戦争が起こる条件、起こらない条件を詳しく検討する必要があります。未来の人類はもっと賢くなってだんだんと戦争をしなくなると期待したいですね。
 ヒロシマの原爆体験後、もう二度と戦争はしたくないと思ったのは日本人で、アメリカ人は逆だったようですね。アメリカは、ヒロシマとナガサキに原爆を落とし、そのあとの日本占領が、ほとんど抵抗されることなく非常にうまくいったので、どのような残忍な武器を使ってでも敵を完膚なきまで徹底的にやっつければ、いや、残忍な武器を使えば使うほど、敵はわれわれに従順な友好国になるという教訓を得たようです。この教訓に基づいて、アメリカはベトナム戦争を起こし、アフガニスタンに侵攻し、今、イラク戦争に熱中しています。イラク戦争を始めたとき、アメリカは、イラク攻略作戦を「衝撃と畏怖」(shock and awe )作戦と称したでしょう。圧倒的に優勢な軍事力によって敵に衝撃を与え、畏怖を抱かせれば、敵はわれわれの言う通りになると思っているので、そう名づけたのでした。そう思っている限り、つまり対日戦争で得た教訓を捨てない限り、アメリカは、イラク戦争が終わってもまたどこかで戦争を始めるでしょう。戦争は思想の問題でもあるのです。フランスとドイツはイラク戦争に賛成しませんでした。アメリカ軍に協力しているのはアメリカの従属国だけです。この戦争はアメリカの戦争です。
 したがって、今われわれが問題にすべきなのは、人類をひとまとめにして人類は戦争を廃絶できるかとか、戦争は人間の変更不能な本能なのかなどと抽象的な一般論を議論することではなくて、それより前にまず、具体的問題としてアメリカの戦争好きをどうやって解消するかと問うことだと思います。今、イラク戦争のほかに、パレスティナやチェチェンでも殺し合いが起こっていますが、それはそのあとの問題です。
 しかし、原爆の被害を体験した日本がアメリカのイラク戦争に協力しているのは何とも解しがたいですね。遠い中東のほうでやっているのだから、対岸の火事で日本には火の粉は飛んでこないと思っているのでしょうか。目先のことに囚われて小泉とかいう人のごまかしの屁理屈に惑わされているのでしょうか。この対米協力は、長い目で見れば、日本の歴史に拭いがたい汚点を残すと思います。



 Q16)なぜ日本にはイスラム教やキリスト教は浸透しないのか。(質問者 善徳寺 友国義信)
 A)イスラム教やキリスト教そのものがどうだこうだというより、一神教の考え方、さっきも言ったように、抽象的、観念的規範に基づいて世界を把握し構築する考え方を日本人は受け付けないのですね。なぜ受け付けないのかと言えば、拙著『幻想の未来』で述べたように、日本人の道徳というか、行動規範の基盤は人間関係に、人々にどう思われるかということに基づいているからです。戦国時代にやってきた切支丹伴天連の死を賭けた必死の努力も(彼らは、それまで他のところでの布教の最大の障害であったユダヤ教やイスラム教を日本人は信じていないので、宗教的に真空の日本には簡単にキリスト教を布教できると思ったらしいです)、キリスト教が解禁になった明治の初めの宣教師たちの真摯な努力も、敗戦後のアメリカ占領軍に支援された布教活動も、日本国民を0.数%以上はキリスト教徒にすることができませんでした。戦国時代は切支丹以外の南蛮文化、明治時代は天主教以外の文明開化、敗戦後はキリスト教以外のアメリカ文化は大々的に受け入れたのにね。肌が合わないのでしょう。ついでながら言えば、日本人がマルクス主義、共産主義を受け付けないのも同じ理由からでしょう。

 Q17)浄土真宗の教えは祈祷や迷信に頼らない理性的な生き方を示しているのに、なぜ庶民の生活の中にまで浸透してゆかないのでしょうか。(質問者 善徳寺 友国義信)
 A)質問の意味がよくわかりませんが・・・。理性というのは、西欧で神が死んだあと、神の後釜として発明された幻想のうちの一つで、浄土真宗の教えとは関係ないと思いますが・・・。

 Q18)親鸞の悪人正機説を自身は罪深い凡夫であると自覚することによって救われる人と、ニヒリズムに陥った人との違いはどこにあるか。(質問者 善徳寺 友国義信)
 A)それでニヒリズムに陥った人というのは、悪人正機説を誤解したというだけのことではないんですか。あるいは、自分が善行と思っていることを積んでゆけば、それで救われると単純に信じていたところ、「いはんや悪人をや」と言われて、何が何だかわからなくなった人ではないですか。



 Q19)精神分析では「エディプス・コンプレックス」に対応するものとして「アジャセ・コンプレックス」もよく問題になります。「エディプス・コンプレックス」は、ギリシア悲劇にあるように、男の子が母親に愛着をもち、同性である父親に反発することですが、「アジャセ・コンプレックス」は、母親を愛するがゆえに母親に反抗することだと理解しています。この点について、精神分析の立場から解説していただきたいと思います。(質問者 専光寺 季平弘順)
 A)フロイドの患者は主として父親との関係で苦しみ、葛藤して神経症になっている。その現象を説明するためにフロイドは「エディプス・コンプレックス」の理論を考え出し、それを人類に普遍的なものだと考えました。ところが、日本人の分析者のところにやってくる日本人の患者は主として母親との関係で苦しんでいる。古沢平作さんが、フロイドが普遍的だと言う「エディプス・コンプレックス」はどうも日本人には当てはまらないことに気づき、阿闍世王の仏教説話にヒントを得て、「アジャセ・コンプレックス」の理論をつくり、その論文をウィ−ンのフロイドのところにもっていったのですが、読んでくれたか読んでくれなかったか、とにかく受け入れてもらえなかったそうです。しかし、日本人のわたしにはこの理論はよくわかります。
 要するに、ユダヤ=キリスト教の文化においては、父親が親子関係の要であって、父親は、権威と権力をもって規範を押しつけ、息子を支配しようとします。それに盲従するのではなく、また、盲目的に反抗するのでもなく、父親の規範を批判的に捉え返し、自らの規範として体得し、主体的にその規範に基づいて己れを律することができるようになったとき、男の子は一人前の男としての自我を確立することができるわけです。それに失敗し、父親の支配を克服できなかったとき、男の子は神経症になります。日本の家庭では、母親が主軸であって、母親が情に絡めて息子を支配しようとします。「そのようなことは禁止する」ではなく、「そんなことをして、おまえをこんなにも愛しているお母さんを悲しませないでおくれ」というのが日本の母親の作戦です。このような母親の情緒作戦に直面して、彼女の盲目的、全面的愛を信じてそこに呑み込まれてしまうのではなく、その作戦の背後に見え隠れする彼女のいやらしいエゴイズムを感じ取って彼女を憎み拒否するのでもなく、母親は母親なりの限界内で息子の自分を愛してくれていることを感謝し、別個の人間としての母親のエゴイズムをそれはそれとして認めて決して母親を恨むことなく、一定の友好的距離を保った上での母親との関係のなかで男の子は一人前の男としての自我を確立します。これに失敗したとき、日本の男の子は神経症になるわけです。親子関係がうまくゆかなくて個人が神経症になるとしても、その過程と構造が西欧人と日本人とでは違うのです。



 Q20)他力本願の教えの広さを民衆は十分に理解できるでしょうか。(質問者 善通寺 古川知行)
 A)そのようなことはわかりませんが、その言い方はちょっとひっかかりますね。昔、キリスト教の宣教師は、野蛮人がキリスト教の正しい教えを理解できるかどうかを問題にしました。彼らは、人類全員がキリスト教徒になれば理想の世界が実現するのに、キリスト教の正しい教えを理解せず、キリスト教を受け入れない野蛮人がいるから、世の中に不幸が絶えないのだという前提に立っていました。この論理はおかしくないですか。この質問者がこのような宣教師と同じような論理をどこかで信じていてこの質問をしたのでないことを望みます。


質問内容の詳細は、事前質問をクリックしてください。




(武田勝道の掲示板)

(差別問題)

(宗教問題を気ままに)

(その他のイシュー)


浄土真宗本願寺派(西本願寺派)安芸教区広陵東組基推委寺族部について

トップへ
戻る