権力者の自覚を欠く本願寺教団
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 本願寺教団の基幹運動はなぜ迷走するか……権力行使の自覚のない高級宗務員

 平成17年1月7日(金)広島別院で、新年互礼会がありました。3月は、宗会議員選挙なので現職の宗会議員および立候補予定者も全員出席されました。
 池谷亮真広島別院輪番にご挨拶いたしました。雑談いたしました。彼は、再度、被差別部落の人々の悲惨な歴史を認識すべきであると主張しました。「差別文書とは言っていない。『誤解を与えかねない文書』と言っているだけである。」と発言しました。新年互礼会の席なので、これで終わりました。

 宗教とは何か。社会とは何か。権力とは何か。これら、宗教者がいつも問い続けていなければならない基本テーマは、本願寺の高級宗務員方の意識に上ることはなかったのでしょう。沖和史安芸教区同朋三者懇部長との議論で私が強調したことですが、本願寺教団の高級宗務員には、どうも権力者であることの自覚に欠けています。私が、スポイルズシステム spoils system(猟官制)の宗門への導入を提唱する理由です。宗門が、巨大な教団として存在する以上、私たちは権力の仕組みに目をつぶってはなりません。

 宗祖親鸞聖人の世界と本願寺教団の世界は全く異なるものです。宗教は、個人の内面のことがらか、社会すなわち複数人のことがらか。人は社会的存在で一人では生きることはできない。その意味では、純粋に一人の内面の事象というのもイデアルティプスとして仮に措定したものです。公と私が、政治でよく言われます。右翼も左翼も公が好きです。右翼では天皇、左翼では党の無謬性です。三島由紀夫の文化防衛論、中国の文化大革命が、それぞれの公でした。そして、公は外見の公明さに反して非常にうさんくさい分野です。
 釈尊も親鸞聖人も個人の内面にウエイトがあります。しかしながら、本願寺教団は、社会・組織の要素が余りにも大きくなりました。内心についての教義は、単なるスパイス(味付け)のような様相さえ呈しています。
 キリスト教は、出発点のユダヤ教が民族という集団救済を目的としているため、仏教と違い本質的には集団主義的宗教でしょう。イエスが例外的な存在なのではないでしょうか。イエス以前(ユダヤ教)も以後のパウロも集団救済がキリスト教の性格であるように思います。
 仏教は、釈尊がお悟りになった(成道)とき、他のものに悟りの内容を伝えるか否か迷われたことに、本来的に個人主義であることが良く現れています。集団救済であるならば、他の人や集団に伝えない悟りまたは救済はありえないからです。集団救済教では、初転法輪の悩みは存在しえません。
 浄土真宗も仏教であり、「親鸞一人がため」と宗祖親鸞聖人が喜ばれたように、仏教は本質的には個人主義と思います。しかし、教団や宗派を形成すると、必然的に権力関係が発生いたします。権力は腐敗するので、現代の日本では、権力は悪と考えられていますが、権力そのものはなければ集団は維持できません。サンガに戒律が必要なゆえんです。戒律がないのが日本仏教の特徴と揶揄して言われますが、最澄や親鸞同様、私は、仏教に戒律は本来的でないと思います。しかし、個人主義的な浄土真宗においても、教団をすなわち本願寺を前提にすれば、他の集団以上に強力な権力が発生しました。私たち宗門の僧侶は、教義のみを大切にし(言葉をかえれば「目を奪われて))、権力を熟視しませんでした。下間(しもつま)のような坊官(注1)が、明治維新で長州勢力によって追放されるまで権力を専恣したが、宗門全体としては勢力や組織の強大さに比べて、権力の機能に暗かったのではないでしょうか。

 民主主義や権力の働き・移動についての言説は、深く人間洞察の結果です。政治学は、何か無機的な学問的推論から制度や制度の運用の仕方が見出せるように考えられているのではないかと思われますが、私は「客観的な」政治学という学問はそもそも存在しないとの立場です。政治学は、判断の学問であり、自己の人間観による道徳であるとすら思います。

 本願寺教団では、次の視点を自覚的に持つべきであると思います。宗門組織は、権力機構である。本願寺が権力そのものなのである。この権力関係を見ようとしないから、本山は伏魔殿と呼ばれるようになったのです。差別問題しかりです。親鸞聖人は、真実(まこと)に立脚されたからこそ、その教えが800年後も、私たちの琴線に触れるのです。私たち宗門人は、自覚して権力の実相を見て、嘘のない宗門に立て直さなければなりません。

 権力の行使には、適正な手続が肝要です。被差別部落の方々の苦悩の歴史があるから、差別発言・差別行為の認定はデタラメで良いという宗務員の考え(自己保身から生まれます)は、根絶しなければなりません。殺人の罪は重い、被害者・その遺族の悲しみを思えば、事実認定はデタラメで良いという本願寺教団基幹運動の考え方は間違っています。

 「誤解を与えかねない」──このような表現での差別発言の告発を認めては、差別問題について自由な議論はできません(「あいまい表現告発と差別の利用」参照)。
 本願寺教団の基幹運動とそれを推進してきた高級宗務員は、差別問題を自己の出世の道具にしてきました。宗門の差別問題についての運動が迷走するのは当然です。

注1)本願寺の役人。はじめは下級の者であったと思うが宦官のように側近として権力を振るった。

                                      (平成17年(2005年)1月10日武田勝道記)

本願寺教団は何をすべきか

差別問題は、誰とでも自由に話し合えることが大切



権力者の自覚……その2

権力者は、愚者を愛玩するものです。それでも、中間権力者は、自己の地位を維持または向上させねばなりません。したがって、その範囲で、優秀な者を子分にしようとします。

本願寺教団の門主や天皇のような最終権力者は、自己の地位の今以上の向上を考える余地はありません。教団や国家が転覆すると、門主や天皇はその地位を失いますが、東本願寺の門首のように地位を喪失する機会はめったにあるものではありません。

門主や天皇に技量のあるときは、それなりに問題はないのですが、技量を欠くときは悲劇です。象徴門主や象徴天皇が、歴史的にもしっくりし危険がないと思われます。明治維新のときの西洋の植民地にされたかもしてない大変動期には、権力の源泉にする意義もあるでしょうが、成熟期(安定期)には、玉手箱(注1)のない門主、政治に関わらない天皇がよいと思います。



注1:浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗会(宗派の国会)で総長(宗派の首相)を選出する時に門主が作成した2から3名のリストをいれた箱で、宗会はこのリストの中から総長を選出する。

                                      (平成17年(2005年)2月20日武田勝道記)



二重権力構造は、権威と権力の構図とは違う

権威と権力は、截然と区別できるものではない。権威はいつでも権力に転化し、権力は継続という要素が加わると権威を帯びてくる。しかし、理念的には一応区別できる。権威は精神的なものであり、権力は物理的強制力を本質とする。天皇は、現在は象徴すなわち権威である。具体的行為は、天皇からは出てこない。

二重権力は、同質の対抗権力とは異なり、上位の権力より下位の権力が決定力を持つ構造である。三権分立のようにある意味では補完関係にあるバランス構造ではない。二重権力のもっとも悪いところは、下位の者(あるいは影の者)が責任を問われない。あるいは、戦前のように、周りのものがブロックして上位の者(お上)を守り、結局無責任体制となって、改革する手立てが失われる。

宗門(浄土真宗本願寺派)で、差別問題に取り組む基幹運動が迷走する原因は、ここにある。門主は、明らかに権威である。そして、総局(執行部)と宗会(議会)そして監正局(司法)という、権力機関がある。しかし、宗門は宗教団体である。宗教は本来的に、教義がすべてである。宗教団体である宗門の権力諸機構は下位の雑部門である。したがって、門主は、必然的に生殺与奪を握る権力を有することになる。異端に対する破門や粛清は、宗教団体に本来的にある権能である。西洋中世の魔女裁判や異端審問は、宗教の本質である。現代では、ローマ法王もそうであろうが、わが宗門の門主も、可能な限り、権力を放棄するよう努めなければならない。宗門の玉手箱は、やはり否定されなければならない。大谷光真門主は、ぜひ玉手箱を放棄していただきたい。

ご認許(私は形式的権能と思うが、宗門では実質的裁可と捉える向きもある)や玉手箱を認めて、門主の無答責主張する者は、門主を利用して権力を行使する喜悦をむさぼるものである。ながく宗務員生活を送ると自己を本願寺と一体化するのであろうか。こうして人間から遊離した基幹運動(同朋運動)になったのである。
           (平成17年(2005年)2月24日武田勝道記、H17.3.18「はてなBlog安芸ねっと」り転記)




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