★ 蒼海詩集 ★
  (1) 概要と目次

副島蒼海(文政11・9・9〜明治11・5・14)
佐賀の人。佐賀藩国学教授枝吉種彰の次男。名を種臣、通称龍種、二郎。号を一一学人。佐賀藩士副島利忠の養嗣子となり、その姓を継ぐ。枝吉氏は漢の王室・劉氏の後裔であると言う。種臣が烏江に舟を浮べて「沛公の子孫,今われ在り」と詠じたのはこのことを言う。沛公とは漢の高祖・劉邦である。

枝吉氏の祖は大蔵氏で,大蔵氏の系譜は漢の霊帝の曾孫・阿智王に遡ると言う。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の明帝に使者を送り,阿智王は日本に渡り帰化し,その子孫が履仲天皇の時に大蔵の姓を賜る。藤原純友の天慶の乱(939〜941)平定に功績のあった大蔵春実は名を春種と改めた。以来この家系は名前に「種」の字を用いるようになった。(経歴偶談)

種臣が嗣いだ副島氏の遠祖は菅原道真と言う。道真は大蔵成実の弟で菅原是善の嗣となった。道真の子・淳茂の後裔が福島氏を名乗り,福島氏から副島氏が分かれたと言う。種臣は霊的な人間で,屡々神に祈り,自分に心があれば天地の気がそこに来るといい,ある時,人が霊魂不滅を否定した,彼は突然立ち上がり「死んだら霊魂不滅をお目にかける」といって退場した。

種臣は幼少より父の薫陶を受けて国学を学ぶ。兄神陽の感化を受け、国事に志した。1852年、二十五歳、京都に上る。ペリーの浦賀に来たり海内騒然、尊王攘夷の論興り、滄海も時難救済の先鋒となろうとし、大原重徳ら有志と交わる。又、ロシアと樺太の国境問題を議し、マリアルーズ号事件、征台事件などに腕を振るった。然し征韓論に敗れ、西郷隆盛、板垣退助と共に下野した。

9年清国を漫遊し極東の政局を観て、専制政治の非を悟り帰国、民選議院の設立を建白した。蒼海は人と為り豪気 闊達、識見高邁、私心無く、経学に明るく詩文巧みで明治元勲中抜群の存在であったと言う。書も善くし先年、佐賀市に於いて蒼海の墨跡展が開催された。正に圧巻。鬼神飛龍が如し。常設展で無いのが惜しまれる。
先哲者の漢詩

参考文献・
大日本人名辞典・講談社。
日本の思想家・明徳出版社
蒼海遺稿。蒼海全集六巻六冊。

               蒼海詩集目次
     蒼海詩集 (上)      蒼海詩集 (下)
   癸丑歳在京師作 (三首)之一    上暇不得作
   癸丑歳在京師作 (三首)之二    秋風思故郷
   癸丑歳在京師作 (三首)之三    寓居即事
   南海望琉球諸島     読詩 (一)
   発天津    読詩 (二)
   通州    酔後歌
   長崎    陞伯爵作  
   将航于清国。別友人    観岳飛書
   客中示人 二首(一)    哀孫点
   客中示人 二首(二)     寄題春畝山人陽和洞
   次韻弔項羽答曾根俊虎    悼金玉均 (一)
   解嘲 四首(一)    悼金玉均 (二)
   解嘲 四首(二)    秋日示諸生
   解嘲 四首(三)    題朱文公幅
   解嘲 四首(四)    酬人語貧賎
   楓橋    遇述 (一) 
   別徐明府    遇述 (二)
   歳云暮矣。歳暮之嗟    遇述 (三)
   古楊柳枝詞    憶森大來
   暮門    寧齊約来訪・喜賦 (一)
   辞職有作    寧齊約来訪・喜賦 (二)
   示正直    書津田三蔵始末
   酒田瞰海楼詠      還家作
   風塵    口号解嘲

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