頼山陽 (1780〜1832) 石九鼎の漢詩館 頼山陽。儒者、修史家、名は襄・字は子成・久九太郎。頼春水の子。安芸(広島)の人。頼山陽と梁川星巌の二大巨匠が当時の漢詩界をリーダー格として燦然と輝き、以後の漢詩界に多大な影響を残した。山陽に就いては、伝記が数多く書かれている。今、側面から山陽の機軸を移して見た。 少年時代の山陽は繊弱で多病であった、山陽の母親『梅シ日記』(静夫人)は日記中に我が子の健康状態に一喜一憂する。山陽八歳の時(1787年)病状が定まった症候として母、静夫人に意識された。今日の言う、小児のひきつけ。の類と想定される。(1793年)9月、かなり重症の発作が14歳の少年、久太郎を襲う。 母静夫人は日記に克明に記す。10月、大発作の時に父春水は江戸から帰国の途上で知らない。病状は3カ月も続く、父春水の『春水日記』」には「久児宿痾暴発、狼狽、昼夜看護、此の間事件、茫乎不記」と書く。この時期、次男大次郎が疱瘡で僅か3歳で夭折。妹十もようやく危機を脱した7日後の事である。 (1797年)3月12日山陽は江戸上番の叔父杏坪に伴われて広島から一路江戸に上る。嬉嬉として旅立つ山陽の心境が詩集にも見える。江戸留学は1798年4月4日、突如打ちきりられた。広島に帰った山陽に以前の病状が現れる。『春水日記』には「久太郎、鬱症」と記す。持病と放蕩癖は収まらず両親は配偶者を娶らせば、気分も変わるだろうと、春水の同僚の御園道英の娘、淳を嫁に迎えた。 山陽は家庭に居着くどころか外出続きだ。春水は山陽に脅かし「久児夜帰太遅、戒禁足」母静も「御不機嫌」と記す。毎晩の御前様,時には友人と厳島の遊郭に足を延ばす。新妻の淳は妊娠初期でヒステリーの原因は山陽の不品行から生じている。 (1800年)山陽の決定的な運命の逐電事件が起きた。一家あげての捜索の結果、山陽は廃嫡し座敷牢に監禁。(1801年)2月16日、長子聿庵の生まれる4日前、この不幸な妻は離婚されることになる。山陽の広島を出奔して京都に脱出の目的は定かではない。 1802年4月28日座敷牢から軟禁の部屋に移された。日本外史の構想は此で生まれた。或る一日。家書を曝す時のこと,山陽は蘇東坡史論を見て「天地間此くの如く嘉す可きの文あるか」と遂に文章に力を傾けたと言う。山陽は近体詩よりも古体詩、詠物よりも詠史を得意とし、詩人と呼ばれることを喜ばなかった。 |
山陽詩集 1 | 山陽詩集 2 |
癸丑歳偶成 | 発尾道 |
題不識庵撃機山図 | 遡秦水 |
舟宿暗門曾随家・・・・・ | 東山首春書事 |
郭汾陽聚児孫・・・・・ | 墨梅 |
雑詩 | 在備題山水図 (一) |
春日田園 | 在備題山水図 (二) |
題自画山水 | 寓楼所見 |
赤関雑詩 | 遊山鼻 |
戯作赤関・・・・・・・ | 題画 |
重五似従行・・・・ | 移居築園雑詩 |
書事 | 送大含師遊濃 |
中秋 | 山水小景 (一) |
泊天草洋・・・・ | 山水小景 (一) |
薩摩詞 (八之一) | 画蝶 |
薩摩詞 (八之二) | 題牡丹辛夷合図為南豊 |
発薩留別百合 | 夜半酔醒不寝獨起更飲 |
長崎謡十解 (1) | 相公席上大島生弾月琴 |
途上望諸山・・・・・ | 嵐山二首之一 |
入豊前耶馬溪・・・・ | 君彜來宿 |
題牛穉従母奔図 | 中秋無月侍母 |
淵明濾酒図・・・・ | 摂州路上 |
咏梅 | 宿福山最善寺 |
夜坐 | 平安上巳書感 |
始寓廉塾二首(一)康午 | 入京 |
題李白酔図 | 到家 |
梅雨憶郷 | 有疾 |
甑 坂 | 乙酉除夜 |
丁巳東遊六首 (一) | 冬夜読老蘇審敵審勢ニ策有感而作 |
丁巳東遊六首 (ニ) | 尼崎雇舟入坂 |
丁巳東遊六首 (三) | 過管土綏話旧士綏及先人門者 |
詠史 十二首 (一) | 過廉塾 |
詠史 十二首 (ニ) | 尾道弔渡橋翁 |
詠史 十二首 (三) | 即事 |
詠史 十二首 (四) | 發播示仁寿山校諸生 |
畫 龜 | 山荘宴罷帰城 |
畫 鶴 | 題杏堂畫 |
画蘭 | 題菅茶山先生詩巻 |
読鄭延平傅 | 題利休居士像 |
廉塾雑詩 | 冬日閑居雑詠 |
書 懐 | 題陸羽像 |
遊南禅寺 | 又用杏坪翁韻 |
歳 暮 | 詠三国人物十二絶句 (一)劉備玄徳 |
遊北濃 | 詠三国人物十二絶句 (ニ)曹操 |
舟発大垣赴桑名 | 詠三国人物十二絶句 (三)司馬仲達 |
八幡公 | 詠三国人物十二絶句 (四)周瑜 |