黄葉夕陽村舎詩  菅茶山  弘化丁未歳鐫版 浪華書林  積玉圃梓
   
     巻1    巻2    巻3    巻4、    巻5、 

菅茶山(1748〜1827) 名を晋帥(しんすい)、字を礼卿。通称太中、茶山と号す。寛永元年、備後国神辺(かんなべ)に生まれた。生家は裕福な農業と、酒造業を営む。茶山の父樗平は神辺の農業高橋金右衛門金農の倅で、若くして神辺の本陣本荘屋菅波の養嗣子となったが、その数年後に家督を、その親戚の者に譲ると、自分は別家して農業と酒造業を営みながら悠々自適の生涯を送った。彼には詩歌の嗜みがあり、好んで俳句を作り、句集一巻がある。

茶山はこの樗平の長男で、その詩歌への嗜好と才能は父樗平から受け継いだところが多かった。茶山、19歳の時、京都に遊学、経学を那波魯堂に、医学を和田東郊に学ぶ。のちに故郷の神辺の住居の東北、河堤竹林の下に村塾を開く。対面の山の名をとって黄葉夕陽村舎と名付けた。備中西山拙齋翁、同門の故を以て、往来密に、声気相輔。

由来、日本の漢詩は3つの時代分けられる。第1は近江朝から奈良朝を経て平安朝時代の宮廷の官吏たち。第2は鎌倉から室町時代、五山の僧侶たちの創作。第3は江戸時代の儒者たちの漢詩創作。

菅茶山は持論の中で【事実を述べ、実際を写し、前人の顰みに倣らず、時世の粧を学ばざれば、乃ち始めて偽詩に非ずと為す也】と述べている。茶山の詩は一般に【六如・1734-1801/天台宗の詩名高い学僧】からでたものであると言はれている。然し、茶山は六如の弟子では無い。茶山と六如の初対面は寛政六年・京都である。茶山47歳。二人が互いに意識し、詩を寄示しあうのは、茶山が若き時代、度々、京都へ遊学した頃、当時詩名の高かった六如に私淑したことから始まる

茶山と六如の共通していることは「唐詩模倣から脱却」宋詩を尊ぶこと。詩材を身近な日常生活の中から求める、実景を写し、実感を詠じるなど。茶山の詩集【黄葉夕陽村舎詩】の冒頭・巻頭に六如が茶山に寄せた書通二通が序文として揚げられ、詩中にもにも六如の評言が書き添えられている。

茶山は八十年の生涯のうちに江戸に二度、吉野山を中心に二度、当時としては、かなり大きな旅をしている。19歳の時に始めて大阪、京都に遊学して以来、数回、出かけている。その旅の間に創作した漢詩は写実を基調としながらも、自ずから浪漫的な詩情が覗えられ詩集【黄葉夕陽村舎詩】で識ることが出来る。




           
菅茶山の写生詩はその住居の地。広島県東部の備後国神辺を中心とした農村田園生活や風景を詠じた優れた詩が多い。亦、『筆のすさび』。随筆集がある。学者的な考証随筆ではない。風流人ぶって知識博学を誇った所が無い。

1788年6月5日、菅茶山は「厳島」を見物するために、同伴者と十日に広島に入る、ただちに旧友の頼春水(山陽の父親)を研屋町の邸宅に訪れた。研屋町は現在の平和公園(平和ドーム)から本道り通りの入り口付近の商店街でもあった。春水と杏平、久太郎(山陽)が出迎えた。
運命的な茶山と山陽の出会いである

。此処で茶山と山陽は、雨にけぶる庭を眺めながら『蛍』と言う「韻」を分かちあって、それぞれ、七律一首を作っている。九歳ばかりの山陽が、行儀正しく書窓の格子によって、勉学に勤しむ姿を見て茶山は深く感銘して「旅行記」に記録している。

寛政九年三月、十八歳になった山陽は杏平に連れられて江戸遊学の途に就く。十七日、神辺の「黄葉夕陽村舎」。に着く。その時、茶山は杏平、山陽の一行を大いに歓迎した。

山陽の一年間の江戸滞在生活については詳しいことは解っていない。「山陽の江戸遊学中の事歴を詳かにする能はざるを遺憾とする」木崎好尚著「頼山陽全伝」にみえる。森鴎外の『伊沢蘭軒』にもみえる。

   石 九鼎  2009/09/06